歴史のこころ

企業献金の全面禁止について

 

2010年5月5日
今期の国会では企業による政治献金禁止に関しては十分な議論がなされなかったようである。与党の民主党内でも意見の一致をみていないようだ。一朝一夕に結論が出る問題ではないとは承知の上で、企業献金の全面禁止に関して広く深く論議していただきたいと思う。

企業献金に関して単純に考えてみたい。

企業のお金の使用目的から考えて、単純にフリーハンドで使途自由のお金が政党に献じられる場合というのは、非常に稀な限定条件がいくつも付く場合以外には考えられない。もしそのような献金が通常の株式会社などからなされた場合には、厳密に突きつめれば「背任行為」に当たる可能性が高いであろう。現実にはあり得ない話である。一方、企業サイドから明確な目的が付いて、政党ないし政治家サイドから直截に答えられる場合には、献金というよりは贈収賄に相当することは明らかである。現実の企業による政治献金は、使途自由のお金(0%)から明確な目的が付いてくるお金(100%)までの間の(数十%ぐらいの)数字に落ち着くのではなかろうか。0でもあり得ないし、100でもあり得ない、まあ通常は20から40ぐらいの感じか。もちろん、送金の際にこの数字が金額とともに印刷されて振り込まれるわけではない。つまり、暗黙の了解の世界である。よって、献金する側と受け取る政党や政治家側でこの数字が大きく食い違う場合も多いであろう。しかし、企業サイドの数字がゼロに近ければ背任ないし放漫経営の誹りは免れまい。政治家側の数字がゼロに限りなく近いということも現実的にはなかなか望めないことであろう。

企業による政治献金を禁止して、個人による政治献金のみを許可ないし奨励する、という政治体制を考えてみよう。

たとえば、アメリカの大統領選挙を考えてみれば、現在の大統領選挙とは全く異質な候補者選びとなる。お祭りのような華やかなパーティはあり得ない。持ち寄りに近い質素な集まりになるだろう。残念ながら、現在のアメリカ社会とは全く異質の社会を前提にしなければ、そのようなかたちの大統領選挙を想定することは難しい。

ただここで少し問題なのは、大金持ちからの巨額の個人献金をどうするかである。個人献金の額に関しては、常識的な線(これはかなり低い線である必要がある)に上限を設けなければ、企業献金と同様の弊害を生じる。それでもなお、献金できる個人の層と、献金することも生活を圧迫する個人の層とで、多少の差(集まれば大きな差)が生じることは避けられず、この辺りも、しっかり考慮されなければならないであろう。

日本の場合でも企業による政治献金を禁止するということが理論的には可能である。が、これは、日本の政治の主体が誰であるかという根本的な意味と結びついており、冒頭にも述べたように、広く深く議論する必要がある。企業は誰のためのものかというような難しい問いとも関連している。

もう一つ、忘れてはならないのは、現在のマスコミが抱える問題である。日本の大手マスコミのようにスポンサー企業からの広告に大きく依存する体質では、先ほどの企業献金と政治の問題と同じで、スポンサー企業寄りの報道・オピニオンに偏るのは当然である。企業献金を本質的に批判する論調が大手・主流のマスコミから提出されることはあり得ない。国民が自分たちが主体となって意見を交換する場として、主流のマスコミではない、新しい形のコミュニケーションの場(メディア)が必要である。国民主権の立場で企業献金に関して議論するためには、国民主体のメディアを用いることが必須の前提となろう。

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2010年5月5日付けWEBページより再掲

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