catastrophe

再生のヴィジョンのために

西谷修 破局のプリズムーーー再生のヴィジョンのために ぷねうま舎 2014年

2015年1月21日 水曜日 読了。西谷さんの「世俗哲学」本。

*****

キリスト教は近代の社会形成や人びとの意識の変化のなかに拡散するようにまぎれ込み、一見非宗教的なかたちで規範的効果を及ぼし続けており、そのためにいまも問題になるのだが、そのことを「キリスト教の歴史」として」把握するのが難しいからだ。(同書、p236)

IMG150114027

まさしく、世界の一部がそのような「発展」や「繁栄」を「自由に」追求するからこそ、そこに埋め込まれた暴力によって至るところに「人間の戦場」が生みだされるのだ。そしてふるわれる暴力は「発展」や「繁栄」の側から常に隠される。広河さんはずっとその現場に立ち続けてきた。焼き込んだ硬質な画面のなかから、犠牲者たちの沈黙の叫びが訴えかける。(同書、p252)

東日本大震災と福島の原発事故は、まったく新しい課題をわれわれに提起したわけではない。むしろ進行していた事態がすでに孕んでいた「破局」を、一気に激発させた出来事だったといってよい。いわば「未来」が強引にそこに現出したのである。・・・だから、課題はいかにして噴出した「未来」もう一度遠ざけるか、あるいは「未来」を違ったものとして確保するのか、ということのはずだった。そして、そのための方向はすでにさまざまなかたちで示されていた。ところが、・・・「持続」の復興を押し出し、その勢いで「未来」さえあらかじめ押し潰すような動きが顕在化してきた。「未来」を押し潰すとは、来たるべき「破局」を現在のうちに呑み下してしまうこと、そうして破綻を全般化・恒常化することである。だから、流動化する秩序を制御するために強力な管理と統制が必要とされ、それをソフトに行うため何よりメディア管理が求められる。(同書あとがき、p255-6)

********************

RELATED POST