culture & history

中島義道 続・ウィーン愛憎

2015年4月16日 木曜日 曇り

中島義道 続・ウィーン愛憎 ヨーロッパ、家族、そして私 中公新書 2004年

中島さんがウィーンを10年ぶりに再訪した1994年から、息子さんが20歳を迎える2004年までの10年間、中島さんおよび中島さん一家のウィーンとの関わりがノンフィクションで描かれている。1979年から1984年までのウィーンを舞台とする「ウィーン愛憎」(1990年刊)の続編である。

「続・ウィーン愛憎」は、1998年夏から翌1999年3月までのウィーンでの在外研究期間中の家族との葛藤をフィクションスタイルで描く「ウィーン家族(2009年刊;文庫版2013年刊のタイトルは異文化夫婦)」の予告編にもなっている。

この時期に関しては、「続・ウィーン愛憎」で十分にカバーしているのだから、「ウィーン家族(2009年刊)」は屋上階をなす構築物という感もある。が、「続・ウィーン愛憎」の記述スタイルでは、中島さんにとって追究し足りなかったのだ。思い出せば自責と悔恨で脂汗が出てくるようなこの最も苦しい時期を十分に超克することができなかったのであろう。「続・ウィーン愛憎」の出版からさらに5年後、2009年の春で大学を退職され、同じ2009年に「ウィーン家族」を書き上げて、著者にとって今まで乗り越えられなかったものを乗り越えようとしておられるのだと思う。それでも乗り越え足りなければ、さらに書けばよいと思う。また、書かねばならないとも思う。

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以下、「続・ウィーン愛憎」から若干の引用してみる:

「だが、今回の旅では私はけっして崩れないのだ。・・・(中略)・・・ そう考える余裕があるのは、成熟ではなく自分が転倒しない技術を体得しただけであることもわかっていた。あのころはひたむきであった。だから、たえず傷ついていた。だが、いまはけっして傷つかない保身術を開発してしまった。これは進歩ではなく堕落の現れなのかもしれない。いまや狡猾な私は、苦境に陥りそうになると、手持ちのあらゆる武器を使って、いわばオートマティカルに自らを守ってしまうのである。自然に傷つき、たえず呻き声を上げていたあのころの自分が、無性に懐かしく思われた。(同書、p20−21)

むしろ、われわれがここ100年以上にわたって、西洋哲学を「哲学」として学んでこざるをえなかった不幸、その必然性をしっかり把握して、「では、どうしたらいいのか」考えるヒントを得たかったのである。(同書、p156)

そうはいっても、相互文化哲学はやはり巧妙に隠蔽された「ヨーロッパ中心主義」ではないか、「そうではない」と主張しているだけに、ますますたちが悪いのではないか。(同書、p157−8)

家族、職業、仕事における成功、社会的な貢献、豊かな人間関係・・・これらすべてを人生の目標から外すとき、ひとはほんとうの意味で「生きる」のかもしれない。少なくとも、私はそうである。(同書あとがき、p224)

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