culture & history

儒教を通じて<東北アジア人の原感覚による宗教性>を理解する

加地伸行 儒教とは何か 中公新書 1990年

2015年10月22日 木曜日 快晴 本別にて

儒教を通じて<東北アジア人の原感覚による宗教性>を理解する

・・・(中略)・・・すなわち、儒教における宗教性が家庭において、ちゃんと生きている。ここのところが最も肝腎である。ここにこそ、儒教文化圏が存在する根拠があるからである。
 家族における精神的つながりを、各家庭において持っていること、それは家庭という空間を安定させるとともに、過去(祖先)から未来(子孫)にかけての時間という儒教風の永遠を求める意識を養っている。そこから、現実の己の生死を超えて広い世界を見る眼も生まれてくる。
 もし儒教風の永遠をこの世に求めるとすれば、社会や地球に対して、後は野となれ山となれ、というような無責任なこと、たとえば環境破壊などはできないではないか。また、義務に力を入れず、ただただ個人の権利の主張を突出させるだけという行きかたもそぐわない。常にいま自分とともにある家族という共同体と運命をともにするというのが、儒教文化圏の人々の心情なのである。すべては、ここから始まる。・・・(中略)・・・この現在、この現実を家族とともにどう生きてゆくのか、ということを懸命に考え行動する生活者が、儒教文化圏の人々である。それを支えているのが、宗教的孝、生命論としての孝であることは言うまでもない。・・・(中略)・・・衰退しつつある<儒教の礼教性>を見るのではなくて、人々の間でしぶとく生きている、そして今後もしぶとく生き残ってゆくであろう<儒教の宗教性>をこそ指標として見るべきである。礼教性のような上部の規範(道徳)は社会や歴史の変化と連動して変わりもし消えてもゆく。しかし、根底の宗教性は、東北アジア人の原感覚に基づいているのであるから、これは絶対に変わらない。ましてイデオロギーごときが動かせるものではない。
 この<儒教の宗教性>は、一部、家族理論中の礼教性を残しつつ(家族が接点であるから当然であるが)、儒教文化圏、東北アジアの人々の心の中に生きている。心の深層の中に生きている。それを私は<儒教の内面化>の時代と捉えている。これが現代における儒教である。われわれ儒教文化圏の人間は、このような時代に生きている。
 東北アジア人としては、その原感覚の、祖先崇拝を核とする宗教に基づいてその上部に現代における倫理(環境破壊をしないなど)や家族論(精神的な柱など)を樹ててゆくべきであろう。それが最も人々に共感を与えると考える。(加地、同書、p225-227)

*****

**********

RELATED POST