李卓吾:童心と成心

2016年1月13日 水曜日 晴れ

白川静 狂字論 文字遊心 平凡社ライブラリー1359 1996年

・・・この道学(程朱の学)は、陸象山を経て王陽明に至ると、禅学の風気を模する傾向が強く、一部の「伝習録」には殆ど禅家の公案を読むような錯覚を感じさせるところがある。・・・(中略)・・・陽明の後学に至ってはいっそう禅門のような談義に赴き、それぞれ門戸を張って弁論を競うた。(白川、同書、p92-94)・・・陽明の学においてもう一つ著しいことは、しばしば狂を以て自ら任ずるような言が多いことである。(同書、p94)・・・この狂という語は、また李卓吾の最も愛するところであり、かれは聖人をも狂の一類の人とした。(同書、p95)

童心の説
李卓吾の思想の特徴は、その「童心説」に要約されている。・・・世間的な経験、知識判断が加わって、本来の真が次第に害され、良知が失われる。王陽明のいう良知を、李卓吾はさらにその原初的・本源的なものとして童心におきかえている。良知の前に六経はすべてその権威を失ったが、童心の前には一切の成心がその価値を失う。そしてその立場から、晩年の二十年間は、ただひたすらに著述の筆を進めた。人に接する暇もなく、人に教える暇もないという生活であった。(白川、同書、p98)

(わが国の)江戸期には、たとえば李卓吾のような思想家は生まれなかった。幕藩体制の厳しい時代に、陽明学左派のような行動的な思想は生まれなかったが、大塩平八郎・吉田松陰などは、その思想的影響を受けたといわれる。それを受容する条件はあったのであろう。(白川、同書、p129)

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補注 李卓吾 ウィキペディアによると・・・李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日(1527年11月19日) – 万暦30年3月16日(1602年5月7日))は中国明代の思想家、評論家。陽明学左派に属する。
原名は林 載贄(りん さいし)。後に姓を李と改める。また1566年、即位した隆慶帝朱載垕の避諱により「載」字を除き、李 贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。

福建省泉州府晋江出身。現在の中国の歴史学者の研究では、回教徒ではないかと言われている。26歳の時に郷試に合格したが、進士とはならず地方官を歴任した。54歳で官を退き湖北省麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、そこで読書と著述に励んだ。李卓吾の代表作のほとんどはこの芝仏院時期のものである。その思想は陽明学左派(泰州学派)に属するが、それは官僚として各地に赴任した折、焦竑(しょうこう)や耿定向(こうていこう)・耿定理(こうていり)兄弟と親交を結び陽明学へと傾倒していったためである。その後王竜渓(おうりゅうけい)、羅近渓(らきんけい)といった王陽明の弟子に出会うことで、さらに李卓吾は思索を深めていった。・・・(中略)・・・引退後に刊行した『焚書』には朱子学及びそれを信奉する道学者への厳しい批判が込められていたため、周囲から危険思想と断定され、様々な圧力をかけられた。李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、極度の潔癖症であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。また李卓吾への批判はその思想の特異性のみならず、彼の性格に拠るところも大きい。自ら狷介・偏狭と述べ憚らず、世と相容れないこと甚だしかった。結局、迫害を逃れたさきの北京近郊で捕らえられた。そして獄中で自殺。享年76。死後も弾圧は止まず、著作やその出版の版木は全て遺棄され、王朝が清朝に移り変わっても禁書目録にその著作は載せられることになる。また『明儒学案』にもその名は記されていない。

思想
李卓吾思想の真髄は童心説にある。「童心」とは偽りのない真心を言う。これは陽明学の「良知」を発展させた先に李卓吾が到達したものである。李卓吾によれば、誰もが持つこの「童心」は成長につれて、知識や道理といった外からもたらされるものによって曇らされ失われるという。
この思想が危険視されるのは、当時正統イデオロギーとなっていた朱子学における聖人に至る道を否定している点にある。朱子学では心を性と情に分かち性こそ理とする「性即理」をテーゼとするが、性を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。しかるに李卓吾はそのような研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。そして「童心」を失った者がなす文や行動がいかに巧みであろうと仮(にせ)であって、真なるものでは無いとする。
李卓吾が仮(にせ)、端的に言えば偽善者と非難する具体的な対象は士大夫たちである。彼が生きた明代は『金瓶梅』が書かれたり、著名な詩人がひいきの妓女のくつをお猪口にして持ち歩くなどの行動に見られるように文化爛熟あるいは退廃の時代といえるのであるが、その支配イデオロギーは儒教の中でも特にリゴリズムの傾向が強い朱子学であった。すなわち士大夫は口を開けば「仁義」といった立派なことをいうが、実際の行動はそれに伴っていないことがままあったのである。こうしたダブルスタンダードに対し李卓吾は激しく反発し、士大夫やその価値観を激しく痛罵したのである。
士大夫的価値観への嫌悪・反発が明確に吐露されている例として、それまで儒者によって貶められてきた歴史上の人物や文学の顕彰が挙げられる。たとえば秦の始皇帝や馮道といったそれまで高く評価されてこなかった人々を再評価し、また『西廂記』・『西遊記』・『水滸伝』を『史記』や『離騒』とならぶ古今の至文と評価している。李卓吾の代表作『蔵書』は紀伝体の歴史書だが、その真骨頂は人物の分類や各列伝に付される評論にあり、歴史書の体裁をとった思想書と見るべきである。こうした李卓吾の価値判断は、彼が外的な規範よりも、自らの内なる真心、すなわち「童心」を重視し、且つ是非に定論無しとしたことにより可能となったのである。

後世への影響
李卓吾の童心説は激しい批判を浴びたが、命脈が絶えたわけではない。文学において受け継がれていった。すなわち明末に袁宏道ら公安派の唱えた性霊説はこの童心説を受けたものである。これは人間の自然な心の発露を文学によって表現しようとする考えで、その後は清代の袁枚に引き継がれた。後継者としては水滸伝の補作者馮夢竜がいるが、馮は李卓吾と異なり明王朝の価値観に挑戦せず、俗文学を通じて穏やかに思想を説いていると増井経夫は述べている。
真っ向から士大夫的価値観に挑戦した李卓吾の姿勢を継ぐものは明・清を通じて現れなかった。しかし現在の我々がすでに知っているように、儒教は中国が近代化する過程において支配イデオロギーの座から滑り落ち、五四運動においては「人を喰う」教えとして批判にさらされた。ここにいたって、儒教批判の先駆者として李卓吾は漸く顕彰されるのである。現在、顧炎武・黄宗羲・王夫之と並んで明末清初を代表する思想家の一人として数えられている。
日本でも吉田松陰が獄中に於いて李卓吾の『焚書』を読んで非常に感激するなど、一定の読者を持った。明治に入って李卓吾を顕彰したのは三宅雪嶺著『王陽明』(1894年)に寄せた陸羯南の跋文「王陽明の後に題す」であり、また内藤湖南は遺著『支那史学史』(1949年)に「李贄の史論」の章を立て「古今未曾有の過激思想」と評したが、それ以前に早く「李氏蔵書」(「読書記三則」の一、初出1902年。『目睹書譚』所収)で「但だ此は激薬の若し、以て常食とはすべからず」としながら一読を奨めていた。これらが清末中国人留学生の眼に触れて李卓吾再発見の一つの機縁をなした可能性が、島田虔次によって示唆されている。

著書
『焚書』
『続焚書』
『蔵書』
『続蔵書』
『李氏文集』

参考文献
島田虔次 『朱子学と陽明学』 岩波新書(青版)、1967年。ISBN 4004120284
『中国思想史の研究』 京都大学学術出版会、2005年
「私の内藤湖南」『中国の伝統思想』みすず書房、2001年
溝口雄三 『中国前近代思想の屈折と展開』 東京大学出版会、1980年。ISBN 4130100459
溝口雄三 『李卓吾 正道を歩む異端』 中国の人と思想10:集英社、1985年
劉岸偉 『明末の文人李卓吾:中国にとって思想とは何か』 中公新書、1994年
黄仁宇 『万暦十五年―1587:「文明」の悲劇』 稲畑耕一郎ほか訳、東方書店、1989年。ISBN 4497892727
増井経夫訳 『焚書:明代異端の書』 平凡社、1969年

以上、ウィキペディアから引用 https://ja.wikipedia.org/wiki/李卓吾

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