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草摘みは魂振りのため。野に宿ることも魂振りに関連する行為である。

2016年1月13日 水曜日

白川静 狂字論 文字遊心 平凡社ライブラリー1359 1996年

・・・現在の「万葉」学がなおこのような理解の段階にあるとするならば、それはかなり重大なことのように思われる。そこには古代文学への理解の方法が、全く欠如しているからである。
 古代においては、草摘みは魂振りのためにするものであった。
・・・一種の予祝的な行事であるから、時と所とは定めて行う。・・・のように野を標(し)めて行うのである。・・・も籠(こ)に満たすことが神に祈るときの誓いの条件であった。すなわち予祝的行為である。・・・
 野に宿ることも、これと関連する行為である。かつて人の旅寝したあとに宿ることが、その人との霊的な交渉をもつ所以であった。最も典型的には、人麻呂の安騎野(あきの)の一連の歌がそれである。・・・
 東の野に炎の立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ(四八)
とは、まさにその夜明け、形見の地に宿り、その霊に接する瞬間の荘厳を歌う。それが、「御猟立たしし時は来向ふ」(四九)という現実感として表現されるとき、受霊は完成するのである。それはまことに、古代的な受霊の方法であった。(白川静 狂字論 文字遊心 p120-121、平凡社ライブラリー1359 1996年)

 赤人の「春の野に」の歌が、すみれを女にみたて、野を朝廷に対比した風狂の歌でないことは明らかである。そもそも風狂とは、精神史的な事実であり、十分な歴史的契機をもつことによってのみ生まれるものである。・・・風狂は、自我意識の確立、自我と政治的・社会的関係との対立から生じた緊張関係のなかで、その超克として生まれる否定の精神であり、そのような条件は、万葉期の歌人にはなお求めがたいものであった。それは中国的な教養と、その教養を生んだ制度との間における扞格のなかから生まれてくる。時期的にいえば、少なくとも弘仁期以後に、はじめてその成立の条件をもつことができるものであった。(白川静 狂字論 文字遊心 p121-122、平凡社ライブラリー1359 1996年)

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補注:
扞格 かんかく 抵抗があって進まない(白川、字通、p183)

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補注:
弘仁期 ウィキペディアによると・・・<以下引用>
大同5年9月19日(ユリウス暦810年10月20日) 代始により改元
弘仁15年1月5日(ユリウス暦824年2月8日) 天長に改元
弘仁期におきた出来事:
弘仁元年(810年)、藤原薬子・仲成ら上皇に政権を戻そうと謀って露見し、捕らえられる薬子の変。
弘仁2年(811年)、左右衛士府を左右衛門府に改める。
弘仁7年(816年)、空海が高野山金剛峯寺を開く。
弘仁9年(818年)、富寿神宝鋳造。
弘仁11年(820年)、弘仁格式完成
弘仁13年(822年)、景戒『日本現報善悪霊異記』を編集。
弘仁年間、嵯峨天皇、検非違使の設置。<以上、引用終わり>

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