古代的呪歌の伝統に基く人麻呂の吉野歌

2016年2月9日 火曜日 札幌は雪 

*****

白川静 初期万葉論 中公文庫 2002年 (初出は中央公論社 1979年)

原文(西本願寺本)(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jyoshino/yosino2.html より)

(三十六番)
八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛
澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相
秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖
旦川渡 舟< 競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
弥高< 思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可< 問>

反歌
(三十七番)雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟

(三十八番)
安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 < 芳>野川 多藝津河内尓
高殿乎 高知座而 上立 國見乎為< 勢>< 婆> 疊有 青垣山
々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭< 刺>理
                 [一云][黄葉加射之]
< 逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立
下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨

反歌
(三十九番)山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

以下の読み下し文は、白川 初期万葉集 p132より引用:

やすみしし わご大君のきこしめす 天の下に 国はしも 多(さは)にあれども 山川の清き河内(かふち)と み心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の延べに 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並(な)めて 朝川渡り 舟競ひ 夕河渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす みず激(たぎ)つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも (万葉一・三六)

見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む(万葉一・三七)

*****

この作歌の時期について、第二首左注に「右、日本紀に曰はく」として持統三年正月、八月、四年二月、五月、五年正月、四月の行幸記事をあげ、また「詳らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかをしらずといへり」という。持統の吉野行幸は前後三十一回に及ぶが、五年までにはなお四年八月、十月、五年七月、十月の記事があり、いずれにしても人麻呂の従駕はその初年の際のことで、その作歌は以後儀礼歌として用いられたものであろう。持統三年(西暦689年)四月、草壁皇子が薨(こう)じたとき、人麻呂は命ぜられてその殯宮歌(もがりみやうた)(二・一六七から一七〇)を作っている。人麻呂作歌のうち、成立の時期の知られている最も早いものであるが、この吉野賛歌二連も、おそらくそれと時期の相近いものであろう。
 持統期に吉野行幸が三十一回も記録されているのは、「絶ゆることなくまた還り見む」と詞句に歌われている通りであるが、この頻繁な行幸の目的について、なお明確でないところが多い。人麻呂作歌によって、ここに離宮としての吉野宮が営まれていること、瀧の都の高殿では国見がなされていること、また山遊び、船遊びなどが行われていることなどが知られるが、それにしても年に数度に及ぶ行幸のすべてが、これで説明し尽くせるものではない。(白川、初期万葉論、p133)

*****

補注 持統天皇 
ウィキペディアによると:https://ja.wikipedia.org/wiki/持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、大化元年(645年) – 大宝2年12月22日(703年1月13日))は、日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日) – 持統天皇11年8月1日(697年8月22日))。諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の大宝3年(703年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、『日本書紀』の養老4年(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。漢風諡号、持統天皇は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。

斉明天皇3年(657年)、13才のときに、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。斉明天皇7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。天智天皇元年(662年)に筑紫の娜大津で鸕野讃良皇女は草壁皇子を産み[2]、翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。天智天皇6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、鸕野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
壬申の乱
天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは鸕野讃良皇女だけではなかったかとされる[3]。
・・・(中略)・・・
689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。鸕野讃良は草壁皇子の子(つまり鸕野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7才)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から鸕野讃良は自ら天皇に即位することにした。
・・・(中略)・・・
天武との違いで特徴的なのは、頻繁な吉野行幸である。夫との思い出の地を訪れるというだけでなく、天武天皇の権威を意識させ、その権威を借りる意図があったのではないかと言われる。他に伊勢に一度、紀伊に一度の行幸を記録する。『万葉集』の記述から近江に一度の行幸も推定できる。伊勢行幸では、農事の妨げになるという中納言三輪高市麻呂の諫言を押し切った。この行幸には続く藤原京の造営に地方豪族層を協力させる意図が指摘される。
・・・(中略)・・・
外交政策
外交では前代から引き続き新羅と通交し、唐とは公的な関係を持たなかった。日本書紀の持統4年(690年)の項に以下の主旨の記述がある。
持統天皇は、筑後国上陽咩郡(上妻郡)の住人大伴部博麻に対して、「百済救援の役でその方は唐の抑留捕虜とされた。その後、土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子の四人が、唐で日本襲撃計画を聞き、朝廷に奏上したいが帰れないことを憂えた。その時その方は富杼らに『私を奴隷に売り、その金で帰朝し奏上してほしい』といった。そのため、筑紫君薩夜麻や富杼らは日本へ帰り奏上できたが、その方はひとり30年近くも唐に留まった後にやっと帰ることが出来た。自分は、その方が朝廷を尊び国へ忠誠を示したことを喜ぶ。」と詔して、土地などの褒美を与えた。
新羅に対しては対等の関係を認めず、向こうから朝貢するという関係を強いたが、新羅は唐との対抗関係からその条件をのんで関係を結んだようである。日本からは新羅に学問僧など留学生が派遣された。
・・・(中略)・・・
譲位後の持統上皇
・・・持統天皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった。
崩御
大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。1年間のもがりの後、火葬されて天武天皇の墓に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。・・・以下、略・・・
以上、https://ja.wikipedia.org/wiki/持統天皇より引用。

よって持統三年は、西暦で689年。持統が亡くなったのは大宝2年12月22日(西暦の703年1月13日)。

補注:筑紫君薩夜麻 ウィキペディアによると:<「筑紫君薩夜麻」を作成中。ウィキペディアには現在この名前の項目はありません。>とのこと。古田史学で大きく扱われているので興味お有りの方はそちらも御参照下さい。

*****

補注 こうきょ【薨去】《名・ス自》皇族・三位(さんみ)以上の人が死亡すること。「薨ずる」
〖薨〗 コウ・みまかる  身分の高い人の死。日本では、皇族および三位(さんみ)以上の人の死。 「薨去・薨御・崩薨」
薨(白川・字統・p327)薨 は字統によると、会意。夢の省文と死とに従う。夢は夢魔で、夢の中で人に禍をもたらすものである。その夢魔によって死に至ることを薨という。説文四下に「公侯のしゅつするなり」というように、高貴の人の死をいう。
 ・・・ 薨る、みまかると読む。ほかに「みまかる」と訓読みする漢字は、崩る(白川・字統・p818)。
字統によると、「礼記」に天子の死を崩といい、諸侯には薨という」とみえる。身分によるこのような区別はもとより後に加えられたもの。高貴の人の死を薨というのは、高貴のものが、夢魔や邪霊に襲われて死ぬことが多かったからであろう。その昏睡状態にあるときの声を薨薨という。(以上は白川、字統、p327より抄録)

*****

参考: 以下引用 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jyoshino/yosino2.html

読み下し文(岩波日本古典文学大系に準拠)

『万葉集』巻一

吉野の宮に幸(いでま)しし時、柿本朝臣人麿の作る歌
三十六番
やすみしし わご大君の きこしめす 天の下に 国はしも
さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ
秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて
朝川渡り 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく
この山の いや高知らす 水激つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも
反歌
三十七番 見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む
三十八番
やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に
高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなづく 青垣山
山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり
                     [一に云ふ][黄葉かざし]
逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立ち
下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて仕ふる 神の御代かも
反歌
三十九番 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に船出せすかも

右、日本紀に曰く、三年己丑の正月、天皇吉野宮に幸す。 八月吉野宮に幸(いでま)す。 四年庚寅の二月吉野宮に幸す。五月吉野宮に幸す。五年辛卯正月、吉野宮に幸す。四月吉野宮に幸すといへれば、未だ詳(つまび)らかに何月の従駕(おほみとも)に作る歌なるかを知らずといへり。

原文(西本願寺本)
(三十六番)
八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛
澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相
秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百礒城乃 大宮人者 船並弖
旦川渡 舟< 競> 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃
弥高< 思良>珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可< 問>
反歌
(三十七番)雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟
(三十八番)
安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 < 芳>野川 多藝津河内尓
高殿乎 高知座而 上立 國見乎為< 勢>< 婆> 疊有 青垣山
々神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭< 刺>理
                 [一云][黄葉加射之]
< 逝>副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立
下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨
反歌
(三十九番)山川毛 因而奉流 神長柄 多藝津河内尓 船出為加母

*****

**********