天智朝と東アジア

2016年2月15日 月曜日 晴れ

中村修也 天智朝と東アジア:唐の支配から律令国家へ NHKブックス 2015年

六六二年七月から六六五年八月までは正式な熊津都督は不在で、劉仁軌が鎮守総官的立場で熊津都督府を統括していたと考えられる。つまり、天智三年(六六四)五月十七日の郭務悰の日本派遣を命じたのは、劉仁願ではなく劉仁軌と考えるべきであろう。・・・実際の戦闘で日本軍を打ち破った将軍の姪を受けた郭務悰たちを、敗戦国の日本がないがしろに扱うことができようとは思えない。(中村、同書、p78)

高宗の意識はつねに高句麗にあり、百済の滅亡や日本軍との戦闘は、ある意味、途中経過にすぎなかったのである。だが勝利した以上は、羈縻(きび)政策を展開し、周辺諸国を支配下にいれるのは必然であった。 ここにいう羈縻政策とは、周辺諸国を間接的に統御する方策である。在地の首長に唐の官職名を与えて、その国の自治を認める代わりに、国内に都護府を設置し、軍事的支配下におくというものである。(中村、同書、p69)

君臣的秩序の具体化として
1)領域化(内地化)
2)羈縻(きび)
3)冊封(さくほう)
の諸関係があり、
求心的関係としては朝貢を考えることができる。
・・・中国王朝的支配秩序への組み込みは領域化がもっともつよく、冊封が弱く、羈縻はその中間に位置しそれらの外側に朝貢が存在したのである。
(中村、同書、p69、中国史の栗原益男氏「七、八世紀の東アジア世界」より)

郭務悰が結果として大和に「入京」していないのは、日本政府が那津宮(なのつのみや)におり、正式交渉も那津宮で行われたからであろう。・・それゆえ、実は「表函(ふみはこ)」も天智の手に渡り披見(ひけん)されていると考える方が的を射ているのではなかろうか。(中村、同書、p80)

郭務悰の対日目的
 郭務悰は天智三年(664)五月に来日して十二月に帰国している。この間訳七か月。彼は日本で何をしていたのであろうか。(中村、同書、p80)

日本書紀はなぜ、郭務悰の来日目的を書かないのか。それがまず問題であるが、これは書きたくない事情があったからではなかろうか。その書きたくない内容とはなにかというと、・・戦争の問責と賠償要求と考えられる。(中村、同書、p83)

烽(とぶひ)
もし烽を防衛のために設置するならば、対馬・壱岐・筑紫だはなく、長門・吉備・難波など、瀬戸内から大和への連絡地に設置すべきである。ところが今回設けられた烽は筑紫・壱岐・対馬・朝鮮半島南端という唐が吉備支配する百済故地への連絡ルートである。(中村、同書、p86)
「日本の古代の烽制は、中国の国家的な烽制を取り入れたものであった。(中村、p86、佐藤信「古代国家と烽」)・・まさにこの時の「烽」が、郭務悰が唐の通信システムである「烽」を取り入れて設置させた最初の事例と考えられる。(中村、同書、p86)

対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国に置かれた「防と烽」は、今後、熊津都督府と日本の筑紫との往来のための連絡所として、郭務悰によって設置されたものと理解するのが、もっとも自然なのである。(中村、同書、p87)

劉徳高の訪日
「日本書紀」は烽や水城の築造記事の後に、劉徳高の訪日記事を掲げる。天智四年(665)九月から十二月にかけて劉徳高が日本に滞在している。・・前回に引き続き、郭務悰も同行している。(中村、同書、p90)

大野城
大野城は北からの唐の軍勢を防ぐためではなく、南から九州勢力が進攻してくる危険を考慮して、筑紫に駐屯する予定の唐軍を守るために築いたものであり、今後、九州全域に羈縻支配を及ぼすために設けられたものと考えるのがいちばん合理的ではなかろうか。(中村、同書、p101)

大友王子の派遣
大友王子が就利山の会盟と泰山の封禅儀式の両方に参加して、かつ劉徳高とも対面することができるのは、ここ熊津都督府で二人が会った場合だけである。(中村、同書、p134)

なぜ、天智十年に改めて人事が行われ、冠位や法制についてのことが発布されたのであろうか。本来は、大王の即位の年に行われるべきことであり、天智朝の特殊事情を考えても、天智が近江京に戻った天智七年に行われるべきことである。しかし、これも天智八年の郭務悰たちの来日と関連させて考えると、無理なく理解できる。 つまり、大友王子首班の人事は、郭務悰たちが考えた羈縻支配のための人事なのである。新たな冠位や法制も羈縻支配のためのものと考えれば、彼らの来日後、一年余を経ての成果と受け取れる。それをいっそう明確にしてくれるのが、天智十年正月十三日条と是月条である。・・是月条の記事は不思議な人事としかいいようがない。日本人が一人も登場しない人事である。・・一見、正月十三日の記事と是月条の記事は別の存在のように分けて書かれている。しかし、「劉仁願」(*注・参照)が派遣した李守真がもたらした「上表」(かみたてまつる)がまさに是月条に出された人事内容を記した命令書だったと考えてみるとどうであろうか。(中村、同書、p228-230)

*注: 「劉仁願」となっているが、総章元年(六六八年)八月に劉仁願は流罪になっている。(中村、同書、p230) 

唐が(朝鮮半島への羈縻政策を)あきらめるのは、儀鳳元年(六七六)二月であろう。この時、唐は高句麗のために設置した安東都護府を遼東故城(遼陽市)に移し、旧百済領のための熊津都督府を健安故城(現遼寧省営口市)に移した。唐の全面的な遼東半島への撤退である。 しかし、天智十年はまだそこまでには至っていない。長安にいる劉仁軌の指令で李守真が日本に派遣されたとなると、それは唐王朝の指令であり、直接的な日本への羈縻政策の指令であったと考えるべきである。(中村、同書、p233)

近江朝は、唐の羈縻政策遂行のために、そのための法的整備を強いられていたと考えられる。(中村、同書、p236)

天武元年(六七二)三月十八日条には、郭務悰がまだ日本に滞在しており、天智の喪に服して挙哀(こあい)した記事があり、夏五月三十日に帰国したとする。・・翌六月からは壬申の乱が始まるから、唐の使者には、それ以前に帰国してもらわなければならなかったのであろう。しかし、これらの一連の記事はどれほど信用できるであろうか。(中村、同書、p241)

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