高松塚被葬者考ーー天武朝の謎

2016年2月21日 日曜日 雪

小林惠子(こばやしやすこ) 高松塚被葬者考ーー天武朝の謎ーー 現代思潮社 1988年

高松塚の築造年代は、尺度・海獣葡萄鏡・顔料・星宿等から、八世紀に入らず、持統末年(六九七)までに限定される。壁画の男子の服装は持統四年四月に規定されたものであってみれば、厳密に言って、その間の六年八月の間ということになる。 しかし、服装が規定されたからといって、ただちに描かれるといった今のモード誌的なものではないから多少の余裕をみて持統五年から一〇年くらいまでの約五年間に限定されるという結論に達する。(小林、同書、p91)

大宝令(七〇一年)では天皇の兄弟と男子を親王、姉妹と女子を内親王と称すると定められている。したがって「書紀」の編纂者である舎人親王は大宝令にしたがって、天武天皇の皇子であるが故に、親王と称していることになる。 長屋王が天皇の子息を意味する親王を称していたとするならば、当然、長屋王の父である高市は天皇であったことになる。・・長屋王が親王を僭称した場合も想定しなければならないから、ただちに、高市が天皇位にあったという証明にはならないが、持統朝時代の高市が、いかに権威を持っていたかを憶測させる証左の一つにはなると思う。(小林、同書、p60)

三種の神器:
このように天皇の絶対的神格化のためには、古墳時代を通じて神を祭祀するのに用いていた鏡・剣・玉のうち、中国伝来の即位儀礼には入っていない玉を加えて、自らのものとして、祭政一致観念を世に定着させようと意図したのが天武ではなかったか。 殊に渡来人系の人である天武にとってみれば、土着勢力を懐柔するためには、日本古来の風俗習慣を尊重しなければならなかったであろう。 天武以後、実権を持った大津・高市はそれを念頭に置く必要がなかったために、持統朝にあるような中国式の即位儀礼を行ったと思われる。 したがって高松塚の場合、持統朝以前の三種の神器意識をもって、被葬者の天皇という身分を表明するために、三種の品を入れたと推量する。(小林、同書、p108-109)

発掘の結果、壁画が発見されたが、壁画古墳は高句麗・百済では陵墓しかありえず、壁画の絵も星宿や天皇に奉侍する侍者たちを描いていることや、遺骨と棺以外は三種の神器に比定される玉・鏡・剣の他は出土しなかったことなどによって、被葬者は天皇以外にはありえないと結論される。(小林、同書、p115)

高松塚が祟りのある古墳という伝承を持つ以上、この観点より見ていかなければ、高松塚の性格、ひいては被葬者を突き止めることはできないであろう。 槨内は散乱状態で、棺は破壊され、遺骨は外力を受けて棺外に飛び出し、玉類は郭内全面に散らばった状態であった。 森浩一は「正常な事態と異常さをかぎ分ける嗅覚がいる。・・」という意見である。・・石室内は暗いだけでなく、高さは113cmしかなく、大人がまともに立って歩けない高さのうえに、100cmちょっとの幅と、・・・後年の盗掘のせいとするには、すべて論理は成立しない。 また、石室からも、棺からも、着衣の切れ端も見付かってはいない。棺材に使った麻布や鏡に付けられた僅かな紐ですら残されているのであるから、始めから存在しなかったとしか考えられない。(小林、同書、p119-121)

高松塚の場合、・・白骨化した遺骸から丁寧に、顔面頭骨・下顎骨を含めた頭骨を切り離したと推量される。頭と体が離れるというのは、どういう意味を持つのであろうか。・・古代人には、生から死への死、死から死体の損亡による未来永劫にわたる真の死という二重の死生観があったといえる。(小林、同書、p125)

高松塚の壁画は死者の身分と人物を表し、そしてその目的を明らかにするために描かれたのであって、決して死者の供養のためではないのである。(小林、同書、p126)

高松塚に北斗七星が描かれていないということは、被葬者が天皇であることを否定するとともに、その再生をも拒絶するという二重の意味が込められていると解釈される。(小林、同書、p129)

壁画の人物像について
空間が空きすぎているのは偶然ではない。五行の色を使い分けながら、四人にして、あえて水気を描かなかったのは、梅原猛のいう法隆寺にある死の原理と同じ意味もあると思われる。(小林、同書、p137)

被葬者に憎しみを持つのなら、何故生前にことをなさないで、相手が死んでから、多大の人力と財力を使って、わざわざ立派な墳墓を造り、見事な壁画を描き副葬品まで入れて、そのうえでしかも破壊するような矛盾した行為をなすかという反論があろう。この疑問ほど古代人と現代人の意識の断絶を示しているものはないと思う。(小林、同書、p137)

鎌倉時代の大内陵(小林、同書、p141-143より抄録)
大内陵が盗掘にあった一二三五年頃は承久の乱(一二二一年)後間もない時期であり、京都の治安は最悪の状態で、都内にも盗賊が横行していた時代であった。
大内陵が盗掘されたことは「百錬抄」・「帝王編年記」などの史料にみえるが、・・・
「吾妻鏡」(巻三〇)によると・・・一〇月になっても騒動は収まらず、六日条に「・・・無骨云々」・・
橘寺の僧侶による「阿不幾乃山稜記」という文書が、・・明治一三年に高山寺において発見された。・・巷間に流れる噂を否定するために、あえてこの書を書いたのではないだろうか。(小林、同書、p143)

高市没後の文武崩時に高松塚のすべてが明るみに出され、「続日本紀」に「有事」という条になって、以後大内東西陵として奉幣されることになったと推量される。(小林、同書、p150)

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