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人麻呂の文学的基盤は巫祝社会集団のうちにある

2016年2月7日 日曜日 札幌は快晴 岩見沢三笠は雪(高速は江別東以北で吹雪のため通行止め。昨日から40cmほどの積雪)

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白川静 初期万葉論 中公文庫 2002年 (初出は中央公論社 1979年)

文学が様式を持続展開してゆくためには制作と受用の場を必要とする: 人麻呂の文学的基盤は巫祝社会集団のうちにある

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「万葉」前期は巫祝的呪誦の文学をその本質としており、後期のそれは士大夫の詠懐的文学である。・・・前期の作者として確かなものとしてはまず人麻呂をあげるべきであろうが、人麻呂は古歌謡の伝統に立って、その呪的儀礼歌を宮廷文学として完成させた人であり、またその文学は、その死とともに終わっている。人麻呂はその様式の完成者であり、また同時に最後の歌人であった。その文学が、旅人、憶良、家持らの後期の文学と甚だしく異質なものであることはいうまでもないが、それはそのような文学を生んだ文学的基盤、また生活者としての時代意識の相違が、すでに異質なものであったことを示している。人麻呂的古代は、人麻呂の死とともにすでに滅んだのである。(白川、同書、p24-25)

人麻呂はおそらく遊部(あそびべ)などに属する巫祝層の出身であったと思われ、その作歌を残している十年前後の消息がわずかに推測されるのみで、伝記も不明の人である。・・・人麻呂の位置を考えるには、その属する巫祝社会的な基盤を主として、その集団性のうちに作歌者としての位相をみなければならない。・・・文学が自己のもつ様式を持続しさらに展開してゆくためには、そのような様式を必要とする文学の基盤が存するのでなければならない。制作と受用の行われる場を必要とするのである。古代文学にあっては、その基盤はおおむね集団的な性格のものであった。(白川、同書、p27-28)

人麻呂の属する柿本氏人が、春日の和に(わに)の分支であり、かれらが折口信夫氏のいう巡遊神人として各地に巡歴布教するものであったことは、すでによく知られていることである。天智後宮の代作歌人といわれる額田王も小野神の信仰に連なるものであり、総じて前期万葉の歌は、このような巡遊者の集団と深い関係をもっている。額田王の歌も人麻呂の歌も、そのような集団のなかで伝承されたものであり、人麻呂が没したのちにもその歌は関係集団のなかに生きつづけ、さらになお展開しつづけたようである。・・・その伝承歌は次第に歌集としての形式を整えるようになる。このようにして成立したものが、「人麻呂歌集」とよばれるものであろう。(白川、同書、p33)

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2016年2月8日 月曜日 札幌は快晴 

白川静 初期万葉論 中公文庫 2002年 (初出は中央公論社 1979年)

安騎野の冬猟

旅宿りは受霊のための実修的儀礼(白川、同書、p98)

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輕皇子宿 于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌

45
八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須登 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬 山者 真木立 荒山道乎 石根  禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎 押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

48
東  野炎 立所見而
反見為者 月西渡 
東(ひむがし)の 野にはかぎろひ 立つ見えて
かへり見すれば 月西渡わたる

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初期万葉論/白川静について紹介されているサイト:

棚橋弘季(HIROKI tanahashi)さんのDESIGN IT! w/LOVEのサイトより<以下引用>http://gitanez.seesaa.net/article/108969676.html 
白川静さんといえば漢字研究が有名ですが、ご自身によれば、もともとは『万葉』について考察する準備として中国の古代文学を志し、その結果生まれたのが「字統」「字訓」「字通」の字書三部作であり、数多くの漢字研究・中国文学研究の著作でした。その意味で本書『初期万葉論』は、白川さんにとってはようやく辿りついた本来の研究対象だったといえるのでしょう。さて、その『初期万葉論』ですが、ひとことでその論旨を要約してしまえば、「初期の万葉歌に叙景の名歌を認め、『人麻呂歌集』的な相聞歌を人麻呂の呪的儀礼歌に先行させるような史的倒錯を、許すべきではない。」白川静『初期万葉論』ということになるでしょう。<以上、引用終わり> http://gitanez.seesaa.net/article/108969676.html

以下は棚橋弘季(HIROKI tanahashi)さんのDESIGN IT! w/LOVEのサイトで引用されている白川さんの文章 <以下引用>

これらの歌は、単なる追憶のためでも、山尋ねや招魂のためでも、また人麻呂の過去の喪失感やそれへの回帰というような、個人的契機のために作られたものではない。この歌群がすでに従駕の作であり、その献詠歌であるとするならば、そのような個人的契機が作歌の表面にうち出されるはずはなく、歌はすべてその従駕の目的に奉仕するものであり、この冬猟と旅宿りという呪的意味をになう行為と関連するものでなければならない。
白川静『初期万葉論』

「見れど飽かぬ」、あるいはこれに近い表現の詞句は、『万葉』のうちに約50例近くを数える。(中略)「見れど飽かぬ」は、その状態が永遠に持続することをねがう呪語であり、その永遠性をたたえることによって、その歌は魂振り的に機能するのである。白川静『初期万葉論』

人麻呂の歌について、従来カオス的とかディオニュソス的ということばで美化されているところのものは、このような古代的呪歌の伝統に基くものであった。それは古代的なもののもつ深さであり、古代的なものが滅びるとともにまた失われてゆく美である。それで人麻呂の完成した呪歌様式としての長歌は、人麻呂の死とともに終焉を告げる。(中略)そしてその古代的なものの喪失の上に、はじめて抒情歌や叙景歌の成立が可能となる。白川静『初期万葉論』

文事の上では、遊部系統の伝承が無力なものとなり、長屋王を中心とする漢詩壇が、おそらく宮廷の文華を独占したことであろう。白川静『初期万葉論』

大きな対立と分裂が、文事をも含めて社会全般にわたって、急速に進行していたようである。『万葉』における呪詞的用語の凋落が著しいのも、そのためであろう。「見れど飽かぬ」「君がため」「わが恋ひやまぬ」なども、本来の魂振り的な限定をもたずに使われるようになった。白川静『初期万葉論』

人麻呂、旅人、憶良、家持という万葉歌の展開を、かりに中国の文学の展開において求めるとすれば、それは『楚辞』、魏晋の詩、晋宋の詩ということになろう。この700年をこえる中国文学の展開を、『万葉』はその10分の1にもみたぬ60年ほどのうちに経験したことになる。白川静『初期万葉論』

このように急激な展開が可能であったのは、それまでの久しい間にわたって蓄積された大陸文化の土壌の上に、律令制への移行や遣唐使の派遣など、積極的にその文化摂取のための政策がとられたからであった。それは明治の開化の際と同じく、一種の周辺革命的な文化変革の相をみせている。外からの影響は大きいものがあったが、その受容に耐えうる内的な蓄積があって、はじめてそれが可能であった。白川静『初期万葉論』

以上はすべて、棚橋弘季(HIROKI tanahashi)さんのDESIGN IT! w/LOVEのサイトで引用されている白川さんの文章をそのまま引用したもの。

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