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日本書紀の讖緯説について

2016年2月18日 木曜日 曇り

日本書紀の讖緯説(しんいせつ):

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小林惠子 二つの顔の大王 倭国・謎の継体王朝と韓三国の英雄たち 文春文庫 1995年(オリジナルの単行本は1991年文藝春秋)

日蝕は「隋書」(志一五 天文中)に「日蝕は陰が陽を侵し、臣が君主を掩う象であり、国が滅び、君主が死ぬ」とあるように、太陽を君主に比定し、君主に不幸があることを暗示する天変である。(小林、二つの顔の大王、p153)

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讖緯 しんい について簡単に調べてみた。

今まで経書は読んでも緯書には手を触れずにきた。しかし、讖緯の思想に影響されて書かれた史書を読解する際に、讖緯に関する知識がゼロでは、偏った理解(訳のわからないことは跳ばし読み)に陥るのではないかと思う。ことに私にとって難解を極める「日本書紀」を紐解く上では、讖緯の基盤知識が必須のようだ。

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https://ja.wikipedia.org/wiki/讖緯 ウィキペディアによると・・・
讖緯(しんい)とは、古代中国で行われた予言のことであり、讖緯の説、讖緯思想、図讖などと呼ばれている。
元来は、讖と緯とは別のものである。讖とは、未来を予言することを意味しており、予言書のことを「讖記」などと呼んでいる。それに対して、緯とは、儒教の経典に対応する「緯書」と呼ばれる書物群を指すものである。しかし、後には、この二者はともに予言を指す言葉と、それを記した書物として、併せて用いられるようになり、「讖緯」という用語が予言を指すようになった。
『隋書』「経籍志」には、
説者又た云う、孔子は既に六経を叙し、以って天人の道を明らかにするも、後世には、その意に稽同すること能わざるを知り、別に緯及び讖を立て、以って来世に遺す。
と見えている。
讖緯説が著しく発展したのは、王莽の新の時代である。王莽の即位を予言する瑞石が発見された、とされ、王莽自身も、それを利用して漢朝を事実上簒奪した。
儒教の経書に対する緯書が後漢代にも盛んに述作され、それらは全て聖人である孔子の言として受け入れられた。後漢の光武帝も、讖緯説を利用して即位している。また、春秋戦国時代の天文占などに由来する讖記の方も、緯書の中に採り入れられて、やがては、それらも、孔子の言であるとされるようになった。当時の大儒者であった鄭玄(ていげん、じょうげん)や馬融らも、緯書を用いて経典を解釈することに全く違和感を持っていなかった。よって、五経に対する緯書は言うに及ばず、当時は経典の中に数えられていなかった『論語』に対する『論語讖』というものまで述作されるに至った。その一方で、桓譚や張衡のような、讖緯説を信じない者は不遇をかこった。
讖緯の説は、その飛躍の時代である王莽の新の時代以来、王朝革命、易姓革命と深く結びつく密接不可分な存在であったため、時の権力からは常に危険視されていた。よって、南北朝以来、歴代の王朝は讖緯の書を禁書扱いし、その流通を禁圧している。
 <以上、ウィキペディアからの引用>

「書紀」の著者たちがどのような見解をとっていたか? それは総合的に謎解きしてゆくしかない。讖緯的世界は、古代的。ソクラテスに与えられたデルフォイの神託、マクベスに与えられた予言、それらの世界なのである。「書紀」を記載した歴史家たちがどれほど讖緯を信じていたかはわからないが、「書紀」では暗黙の了解として採用されている。

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補注 鄭玄 ていげん:
ウィキペディアによると・・・中国人名は漢音で読まれる事が多いが、鄭玄のように古くから日本で知名度の高い人物は古代の呉音が残るので、「じょう げん」と呼ばれる事が多い。
鄭玄の立場は、古文を主とし、今文・古文の諸説を統合して一家の説を形成するものであり、広く六経全般を研究した。その立場に対して批判する者もあったが、彼の経典解釈の功績は甚大であり、後世、清朝の漢学(考証学)のために重要な資料を提供する事となった。現存する『三礼注』や『毛詩鄭箋』は、それらを代表するものである。
<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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補注 日本書紀と百済三書:
ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀 によると・・・
百済三書とは、『百済本記』・『百済記』・『百済新撰』の三書をいい、『日本書紀』に書名が確認されるが、現在には伝わっていない逸書である(『三国史記』の『百済本紀』とは異なる)。・・三書の中で最も記録性に富むのは『百済本記』で、それに基づいた『継体紀』、『欽明紀』の記述には、「日本の天皇が朝鮮半島に広大な領土を有っていた」としなければ意味不通になる文章が非常に多く[24]、・・
現在では、百済三書の記事の原形は百済王朝の史籍にさかのぼると推定され、7世紀末-8世紀初めに、滅亡後に移住した百済の王族貴族が、持ってきた本国の史書から再編纂して天皇の官府に進めたと考えられている[27]。山尾幸久は、日本書紀の編纂者はこれを大幅に改変したとして[28]、律令国家体制成立過程での編纂という時代の性質、編纂主体が置かれていた天皇の臣下という立場の性質(政治的な地位の保全への期待など)などの文脈を無視して百済三書との対応を考えることはできないとしている[29]。このように日本書紀と百済記との対応については諸説ある[30][31][32][33][34][35]。

[29] 天皇が百済王に「賜」わったという地は、忠清道の洪城、維鳩、公州付近から全羅道の栄山江、蟾津江流域にまで及んでいる。これは、滅亡時の百済王が独立して、かつ正当に統治していた国家の領土とほぼ一致する。しかし、7、8世紀の交の在日百済王族、貴族はそれを天皇から委任された統治と表現せざるを得ない臣下の立場にあった。このような観念を実体化して、「高麗、百済、新羅、任那」は「海表の蕃屏として」「元より賜はれる封の限」をもつ「官家を置ける国」だった(『継体紀』)などというのは信頼し難い。山尾(1999)

<以上、引用終わり>

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