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白村江の戦いと壬申の乱:唐初期の朝鮮三国と日本

2016年2月12日 金曜日 曇り

小林恵子 白村江の戦いと壬申の乱:唐初期の朝鮮三国と日本 現代思潮社 1987年

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天智は推古三四年(626)生まれ、天智一〇年(671)の数え年四七崩、天武は推古三一年(623)生まれ、朱鳥元年(686)数え年六五崩であり、天武は天智より三歳年長と推定される。・・天武の方が年長という事実があるからこそ、「書紀」は天武の年齢にかんして、全く沈黙せざるを得なかったと思われる。(小林、同書、p19-20)

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唐の将軍・仁願の配流
しかし、初唐の頃は漢代と違って、将軍は敗戦しても死刑になることはなく、期日に後れても軍法上はともかく実際には、それが故意でなければ役職を免ぜられる程度であったらしい。・・・仁願の場合は、ようやく死一等を免ぜられてその後復帰したという記録もないところから、唐本国よりみて彼の行為は故意になされたものであり弁解の余地なく決定的であったとみなされたと解釈される。・・・(中略)・・・唐の対高句麗戦のいわばドサクサに紛れて、新羅の勢力拡張に協力したと推量せざるを得ないのである。仁願の流罪は唐本国から見て当然の処置といえよう。(小林、同書、p125-126)

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中大兄と大海人の対立は白村江の戦いが終わって顕在化するようになる。(小林、同書、p134)

なぜ、斉明崩後、中大兄の称制期間が六年間もあって即位しなかったかというのは、古来より、種々論議されているところである。(小林、同書、p134)

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