もうひとつの万葉集

2016年3月10日 木曜日 晴れ

李寧煕  もう一つの万葉集 文藝春秋 1989年

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補注:日本式音と訓を混用、韓国語・日本語・漢文体語句をとりまぜて解読することは許されるか?
李寧煕さんの「もうひとつの万葉集」については、姜吉云(かんきるうん・かんぎるうん)さんは、「その手法があまりにも非語学的非文学的でした。・・言語学的な配慮がまったくはらわれていません。漢字の音訓は韓語だけか万葉仮名だけで一貫しなければならないと思います。」(姜吉云 、万葉集歌の原形 三五館 1995年、p116、p130)と批判されている。姜吉云さんらの批判については、ページを改めてノートを記すこととしたい。とりあえず、以下は李寧煕さんの著書からの私のメモ書き(読書ノート)である。韓国語を全く知らない私には是非判断はできない内容の本である。

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万葉集第1巻第9歌
◎ 紀の温泉に幸しし時、額田王の作る歌
  「莫囂圓隣之大相七兄爪湯氣 吾瀬子之 射立為兼五可新何本」

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金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念 
秋の野の vs 金野(せぼる)・・徐伐(そぼる 新羅)・・・

金野とは新羅のことなのです。(李寧煕、同書、p192)「そら」と「みつ」は新羅と百済のことで「そらみつ やまとの国」とは、やまとを形成した新羅・百済二大勢力の歴史を物語る熟語でもあるのです。・・「空見つ」などの意味ではないのです。(李寧煕、同書、p192) 
「莫囂」歌や「野守は見ずや」の歌では新羅ことばでうたっている額田王が、この「金野乃」で百済方言を駆使しているのは、斉明天皇が百済ことばを使っていたからなのでしょう。(李寧煕、同書、p188)

補注 万葉集第1巻第7歌 万葉集原文は以下の通り:
 明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇
  額田王歌 未詳
 金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子能借五百磯所念
  右検山上憶良大夫類聚歌林曰一書戊申年幸比良宮大御歌但紀曰五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉庚辰日天皇幸近江之平浦

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「もう一つの万葉集」、すなわち「本来の万葉集」の解読は、歴史的事実を明確にするため大切な作業であり、「こうも読めるのでは?」という話題提起の時期はすでに終わり、本格的に訳読にとりくむ段階の作業でもあると信じます。(李、同書、p17)

吏読(いど)とか吏読文(いどむん)というのは、古代韓国人が漢字を借り、その音訓を活用して韓国語を表記した借字文です。・・吏読風で書かれた多くの部分、とくに「音読みをせよ」と注をつけた句節は、ほとんど例外なく韓国古代語だということでした。 吏読風ととくに風の字をつけたのは、吏読式漢字借字文ではあるが方法がやや異なるからです。日本式音と訓を混用、韓国語と日本語をとりまぜて表記しているところに加えて、漢文体語句まで活用しているので、実に複雑多様な表現法になっているのです。(李寧煕 同書、p8)

言語解釈というものは、考古学の発見のように眼の前に証拠をつきつけるような迫力はありませんが、きちんとした裏付けがあれば十分に説得力があるものです。(李寧煕 同書、p23)

枕詞というものは、・・その歌の主題を暗示している場合が多いのです。 また、枕詞の形容詞、または形容句はほとんど純粋な韓国語です。(李寧煕 同書、p35)・・・またここで分かることは、枕詞がかならずしもそのすぐ下にくることばにかかるものではないという事実です。おもに詩のモチーフ、または主題などにかかるのが枕詞なのです。

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万葉集の漢字表記は、韓国語側からみるとまことに厳格で、根拠のない書き方は一字たりともされていないのです。万葉人達は各人の誇りにかけ、学識と精魂を傾けて歌を詠んでいたものと思われます。(李寧煕 同書、p111)

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どうしてもすっきり読めない場合、これはあるいは外国語ではなかろうかと疑ってみる
万葉歌が詠われた五世紀から八世紀にかけての日本の国際的政治的背景を考えると、渡来・非渡来を問わず、当時知識階級のことばであった韓国語で、これまた知識階級の文字であった漢字を使って歌を詠む、あるいは文書をつくるということは、むしろ自然の成り行きではないでしょうか。(李寧煕、同書、p211)

補注:「万葉集」編集の時期が、日本に律令制が敷かれて国家主義が強まっていた時期(八世紀後半)であるため、韓国語の歌はよほど捨てられない事情がない限り、編集段階で捨てられる可能性が高かったのではないか、という姜吉云さんの考え(次ページ参照)は、私も妥当だと思う。「よほど捨てられない事情」に関して、そのリーズンが解明できれば、非常に面白い歴史的視点が開けるのではないかと思う。
 一方で、「どうしてもすっきり読めない場合、これはあるいは外国語ではなかろうかと疑ってみる」という李寧煕さんのアイデアは発想としてはすぐれていると思う。ただし、ある程度以上に正しいと確信できる法則を見つけて、その法則を適用して解読していくべきである。なんでもかんでも都合良く先入観の導く方向へ牽強付会していくというのではまちがった袋小路に迷い込みやすいのである。

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「あきづしま」を韓国語でよむと、どういう意味になるのか?・・「あきじそむ」。「子の島」(子である島)という意味になります。「子島」すなわち「別島(わけじま)」「分国」の意味なのです。古代日本は、「そらみつ大和の国」で、そら(新羅)と、みつ(百済)系の分国であったので、このようによばれたのでしょうか。(李寧煕、同書、p213)

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それにしても、万葉集における読み下しふりがなが一部正確であるのに驚かされます。万葉集がはじめて編輯整理された十世紀中頃までは、韓国語で書かれてある部分の解読が一部可能であったのではないでしょうか。また口伝も部分的に相当正確なものであったと思われます。(李寧煕、同書、p155)

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一言主大神は女性?
「宇都志意美(うつしおみ)」(古事記・雄略)は韓国語の「うちじおみ」で、「最高権力者の妻」「女性権力者」「高い身分の女性」のことであった、「うつせみ」「うつそみ」とは関係ありません。・・ この「うつしおみ」は権力者巫女、祭司者を意味しているのです。それで、「やまとに唯独り」の天下の雄略天皇が「拝礼」し、「捧げ物」まで捧げたのでしょう。・・獰猛で鳴る天皇・・その雄略天皇が、矢を向けられながらそれを許し、和気藹々と送ってもらったりしているのは、実に奇異な感じを歴史学者に与えているようです。それは「うつしおみ」の意味が分からないからであり、したがって一言主大神が「女だ」ということが分からないからです。(李寧煕、同書、p166-167)

補注 ウィキペディアによると「能の演目『葛城』では、女神とされている。」とのこと(以下の補注の引用を参照)であり、一言主大神が「女だ」という伝承が何らかの形であったのかもしれないが、少なくともメジャーな考えとしては流布されていないと考えられる。

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補注 一言主 ウィキペディアによると
一言主(ひとことぬし)は、日本の神である。
神話・歴史書の記述:
『古事記』(712年)の下つ巻に登場するのが初出である。460年(雄略天皇4年)、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見附けた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせて一言主神に差し上げた。一言主神はそれを受け取り、天皇の一行を見送った、とある。
少し後の720年に書かれた『日本書紀』では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。時代が下がって797年に書かれた『続日本紀』の巻25では、高鴨神(一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と書かれている。これは、一言主を祀っていた賀茂氏の地位がこの間に低下したためではないかと言われている。(ただし、高鴨神は、現在高鴨神社に祀られている迦毛大御神こと味耜高彦根神であるとする説もある)
さらに、822年の『日本霊異記』では、一言主は役行者(これも賀茂氏の一族である)に使役される神にまで地位が低下しており、役行者が伊豆国に流されたのは、不満を持った一言主が朝廷に讒言したためである、と書かれている。役行者は一言主を呪法で縛り、『日本霊異記』執筆の時点でもまだそれが解けないとある。
また、能の演目『葛城』では、女神とされている。

<以上、引用終わり>

補注 葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)は、ウィキペディアによると・・・
奈良県御所市森脇にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。
「いちごんさん」や「いちこんじさん」と通称される。葛城山東麓に東面して鎮座する。

<以上、引用終わり>

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