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魏志倭人伝の時代、日本海の新勢力「東倭」は丹後半島も支配

2016年3月3日 木曜日 曇り

小林惠子 興亡古代史 東アジアの覇権争奪1000年 文藝春秋 1998年

「倭山」とは「倭国にある山」の意味で、列島、この場合、奴国を暗示しているのではないか。「高句麗本紀」は「百済本紀」や「新羅本紀」と違って、倭国や倭人との攻防は決して明記せず、暗示にとどめているのが特徴であることを忘れるわけにはいかない。(小林、同書、p57下のカラム)

徇喪者(じゅんそうしゃ)を殉死者(じゅんししゃ)と混同して解釈しているのが普通だが、徇喪者の「徇」は使役するという意味である。つまり卑弥呼の墓を作るために使役された人々を徇喪者と言ったのである。王墓を作るのに使役されたのが百余人というのは、当時としては少ない方ではないだろうか。(小林、同書、p67)

 補注 
徇 ジュン となえる・したがう 徇義・徇行・徇節のように自ら服する意に用い、そのために姓名を捨てることを殉(じゅん)という。
殉 ジュン おいじに・したがう 形声 声符は旬(じゅん)。旬は徇(じゅん)の省文。徇に徇服(じゅんぷく)の義があり、死をもって徇(したが)うことを殉という。(以上、白川、字統、p440、p441より抜粋引用)
徇 巡行して衆に示すことをいう。また軍中などに宣布する意に用いる。(白川、字通、p766)
徇喪 この熟語はネット辞書ではパッとは出てこない。とりあえず宿題としておく。

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北九州の大国だった伊都国に亡命した許氏の卑弥呼
卑弥呼は伊都国にあり、伊都国王は別にいたが、東倭を除く、列島全体の呼称が邪馬臺国だったのである。 こうして卑弥呼一族を受け入れた伊都国の王は卑弥呼の権威によって北九州のみならず、ニニギ系神武勢力や東倭・狗奴国を制圧しようとしたと思われる。(小林、同書、p69)

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丹後半島の中央部、京都府弥生町の古墳(大田南五号墳)から、魏の青龍三(二三五)年という年号の入った方格規矩(ほうかくきく)四神鏡が出土している。そして同型の方格規矩四神鏡が狗邪韓国の大成洞墳墓(一八号墳)からも出土している。 先に述べたように四隅突出型墳丘墓の存在からして日本海の新勢力「東倭」は、丹後半島も支配していたと思われるから、この鏡は東倭に与えられたものとするのが妥当である。・・この鏡がどこで製作されたかは別にして、私は東川王が魏側の態度を鮮明にするに際して、東倭と親交を結ぶために送った鏡と考える。(小林、同書、p74-75)

東倭国王は卑弥呼の場合と違って魏の都洛陽には赴いていないようである。しかし高句麗には行ったかも知れない。それを証明するのが、先に述べた出雲に出土した景初三年鏡である。さらに景初四年鏡がある。(小林、同書、p78)

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狗邪韓国 ウィキペディアによると・・・
狗邪韓国(くやかんこく)は、3世紀中頃に朝鮮半島南部にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では韓と接する国、『後漢書』では倭の西北端の国とする。

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