魏晋南北朝 梁の武帝・蕭衍(しょうえん)

2016年4月18日 月曜日 曇りときどき小雨

川本芳昭 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝 講談社 中国の歴史05 2005年

江南貴族制社会

社会のあらゆる場面に生まれた下克上の動き: ・・南朝では身分制が強固に存在していたが、にもかかわらず卑しい身分からはい上がろうとする下克上の動きが社会のあらゆる場面で生じていた。・・上に立つものはその下にあるものから発するそうした圧力を陰に陽に受けていた。藩鎮に赴任した皇子たちは、その配下の人々の上昇欲求を受け、究極的には帝位さえも狙うことを求められていたといえるのである。・・当時の史書は、皇帝に取り入って権勢をふるう、そうした人々を恩倖(おんこう)と称している。・・(皇帝が)そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭とが一致したところに、(劉宋の)文帝のときにもその萌芽が見られなかったわけではないが、孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現するのである。(川本、同書、p146)

貨幣経済の発展: この恩倖には商人出身であるものや商人と結んだものがかなりいたことがわかる。このような人々の政界進出は、南朝における貨幣経済の発展が大きく関係している。(川本、同書、p147)

梁の建国: 武帝(蕭・・梁の武帝の時代の治世は南朝史上まれに見る安定と平和を享受し、武帝が五〇年近い間、政治を行い得たために、後世、「南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」とうたわれるような文化の隆盛がもたらされることになったのである。(川本、同書、p153)

(梁の)武帝が実行した四度の「捨身」: 仏教が中国に根を下ろし得た背景には、四〇〇年にもわたる安定した漢帝国の崩壊を受けて始まった、この魏晋南北朝という動乱の時代の民衆が、それまでの儒教的価値観ではなし得ない自己の救済を、異国の宗教である仏教に求めたからにほかならない。 また、この時代に中国へ移住してきた非漢民族にとっても仏教は、同じ異国に起源をもつ宗教であるだけに、受け入れやすい教えであった。(川本、同書、p159)

武帝の失政: 武帝の政治が放縦に流れ、また、仏教への傾倒がもたらしていた危機は、しかし、武帝の深く認識するところとはならなかった。武帝自身はよき政治を実現している、行っていると固く信じて疑わなかったのである。(川本、同書、p161)

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補注 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/蕭衍
蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。464年生549年没。

補注 侯景の乱 ウィキペディア「蕭衍」によると・・・
太清2年(548年)、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙県)で敗れてしまう。
その後、武帝は侯景に軍を保持したまま梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁室の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱(中国語版))、都城の建康を包囲した。以下、ウィキペディアには詳しく記載されている。(略)

補注 「文選」: 武帝の長子、昭明太子(しょうめいたいし)蕭統(しょうとう)によって編まれた。
ウィキペディアによると・・・
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻[1]。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。

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