高啓の死につながった宮女と犬の図

2016年6月16日 雨

朱元璋によって弾圧された高啓 高啓の死につながった題宮女圖と題畫犬

高啓が処刑される理由となった詩、二篇を紹介する。碇豊長さんのサイトより

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題畫犬  明・高啓

猧兒初長尾茸茸,
行響金鈴細草中。
莫向瑤階吠人影,
羊車半夜出深宮。

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畫(ゑ)の犬に題す

猧兒(わじ)初めて長(ちゃう)じ  尾を茸茸(じょうじょう)として,
行きて 金鈴を響かす  細草(さいさう)の中。
瑤階(えうかい)の人影に向かひて 吠ゆる莫(なか)れ,
羊車(やうしゃ)半夜に  深宮(しんきゅう)を出(い)づ。

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※高啓:明初の詩人。1336年~1374年。明代最高の詩人とされる。字は季迪。江蘇省長州(現・蘇州)の人。元末に呉淞の青丘に隠棲する。詩風は唐宋の格調を保つ。『元史』の編纂に従事する。戸部右侍郎に任ぜられたが、固辞して郷里の青丘に隠棲する。しかし、洪武七年(1374年)、魏観の謀叛の罪に連座して腰斬の刑に処せられた。時に三十九歳。

※題画犬:宮女の絵を見て詩を作る。 *この詩と『題宮女圖』「女奴扶醉踏蒼苔,明月西園侍宴回。小犬隔花空吠影,夜深宮禁有誰來。」とが直接の原因(皇帝の好色な私生活を描いた)とされて、高啓は死罪となったと云われる。

※羊車半夜出深宮:(帝の乗った)羊に引かせた車が、夜半に、奥深い宮殿からお出ましになっている(のだから)。 ・羊車:宮中で用いる小さな車。羊に引かせる車。蛇足になるが、後宮の女性は天子の乗った羊車を自分のところで停めるために、羊の好物であった塩を門口に盛って、天子の羊車の羊の足を止めさせる工夫をしたという。それが現代の日本では、料理屋の門口に盛り塩をし、客足を停めるための縁起物となったと云う。 ・半夜:夜半。 ・深宮:奥深い宮殿。

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題宮女圖  明・高啓

女奴扶醉踏蒼苔,
名月西園侍宴廻。
小犬隔花空吠影,
夜深宮禁有誰來。

宮女の圖に題す

女奴(ぢょど)醉(すゐ)を扶(たす)けて  蒼苔(さうたい)を踏み,
名月 西園(せいゑん)に  宴に侍して廻(めぐ)る。
小犬 花を隔(へだ)てて  空しく影に吠え,
夜 深くして 宮禁(きゅうきん)に  誰(たれ)か来(きた)る有り。

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補注 高啓 ウィキペディアによると・・・
高 啓(こう けい、1336年 – 1374年)は、中国・明代初期の詩人。字は季廸、号は青邱。江蘇省蘇州の出身。「呉中四傑」の一人。娘が一人いる。

略伝
幼少より神童とうたわれ、書は読まざるなしといわれたほどの博学で知られた。王行、徐賁ら北郭十友と交わって早熟の詩才を誇り、また、史書を好んだ。
張士誠の乱を避けて隠れていたが、1369年に招かれて太祖に仕え『元史』の編纂に加わった。
1370年に翰林院編修になり、戸部侍郎に抜擢されたがすぐに辞し、蘇州郊外の青邱に戻り在野の詩人として活躍した。
しかしその詩(「宮女図」)に、太祖を諷刺したものがあり、また友人で蘇州知事でもあった魏観のために書いた文章が禍して腰斬の刑に処せられた。齢39。
洪武6年(1373年)、楓橋において死を覚悟しての北行に際して「絶命詩」を詠んでいた。


明の詩人では最も才能に恵まれ、この世のあらゆる対象を約2000首の詩に表した。詩の意味は平明、表現は淡泊であるが、夭折のため独自の風格を示していない。
日本では江戸時代と明治時代を通じて愛唱された。著に『高太史大全集』18巻、『高太史鳧藻集』5巻、『扣舷集』1巻がある。「青丘子歌」には自己の文学論が述べられており、森鴎外に文語調の訳詩がある。

以上、ウィキペディアより引用終わり

補注 「夭折のため独自の風格をしめしていない」とされているが、本当にそうであろうか。平明・淡泊な高啓の詩は、私にはとても親しみの持てるものである。モーツァルトよりも少しだけ長生きできただけ、高啓もまた名誉あるビフォアー・フォーティ・クラブの会員である。早速にも青丘子の詩集を手に入れて、彼の多くの詩を読んでみたいと思うようになった。

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補注 高啓が処刑された経緯に関して:
明初の朱元璋・太祖による文人官僚に対する大弾圧に関してはウィキペディアなどを参照ください。ただし、太祖存命中は長年にわたって再々の粛清が行われて何万人もの文人官僚が殺されており、高啓は(ウィキペディア程度の詳しさの記載では)名前さえ現れない。

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