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King Lear:the weight of this sad time

2016年9月15日 木曜日 晴れ

But better service have I never done you
Than now to bid you hold.
しかし、これまでの忠勤も、今黙っていては無に帰しましょう。

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Speak what we feel(King Lear)

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1. シェイクスピア リア王 安西徹雄訳 光文社古典新訳文庫 2006年
2. The Pelican Shakespeare, King Lear, Edited by Alfred Harbage, Penguin Books, Inc., 1958, 1970.
3. David Bevington, ed., The Complete Works of Shakespeare, Seventh Ed., Pearson Education, Inc., 2014.

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リア王 1605年、シェイクスピア41歳。

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従者1 待て! お待ちください。私、子供の頃より、閣下(補注***参照。コーンウォール公爵を指す)にお仕えしてまいりました。しかし、これまでのいかなる忠勤も、今黙っていては無に帰しましょう。おとどめなさい、その手を!   ・・・(中略)・・・   ウウ、やられた。見届けてくださったな、残る片目で。せめて手傷を負わせましたぞ。(息絶える)(安西訳、p138)

FIRST SERVANT Hold your hand, my lord!
I have served you ever since I was a child;
But better service have I never done you
Than now to bid you hold.
・・・(中略)・・・
Oh, I am slain! My lord, you have one eye left
To see some mischief on him. Oh! [He dies]
(ペリカン版, p115-116; ベヴィントン版1237ページ)

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III, vii, 99
2nd. SERVANT
I’ll never care what wickedness I do,
If this man come to good.
3rd. SERVANT
If she live long,
And in the end meet the old course of death,
Women will all turn monsters. (ペリカン版, p116; ベヴィントン版1237ページ)

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エドガー
この悲しい時代の重荷は、残されたわれらが担ってゆくほかはない。語らねばならぬことを語るのではなく、ただ、心に感ずることのみを語ろう。(安西訳、同書、p216)

補注 対応する原書は以下の通り:

EDGAR (5.3.329-)(Bevington版、p1254)
The weight of this sad time we must obey;
Speak what we feel, not what we ought to say.
The oldest hath borne most; we that are young
Shall never see so much nor live so long.
        (Exeunt, with a dead march.)

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補注 リア王を読み通してみると、筋の展開にかなり無理を感じる。誰でも感じていることかも知れないが、以下に列挙してみる。

1)リア王は、遺産分割を決意した時点で、自らの3人の娘のことをほとんど何も識らない。王様であれば公務に忙殺されて娘のことなど識らないのはよくあることかも知れないが、それにしても全ての悲劇的展開がここに起因するのである。

2)コーディリアは、冒頭の公開試問の回答で父の期待するお世辞をのべることをあそこまでぶっきらぼうに拒否する必要があったか。後の言動から見ても決して剛毅木訥の娘ではない。誠実ではあっても、むしろ機転の利く賢い娘であるように思われるが、公開試問の席上ではひたすら頑なであった。

3)長女ゴネリルのところに寄食するリア王と臣下たちの言動は度を過ぎて横暴である。
 王権を譲り渡したにもかかわらず、王として横暴にふるまうことが理不尽であることは誰しも認めよう。このことで王を追い出すことに決めたゴネリルにも一理無いとはいえない。もしリア王がコーディリアを頼ってフランス王のところにやってきたとしたら、さぞかしコーディリアも困ったことであろう。そして最終的にはコーディリアとリア王との間も悲劇的に決裂することが推定される。ゴネリルとリーガンの姉妹だけが、親不孝として厳しく糾弾されるのは、少なくともこの場面に関してだけならかなり理不尽である。ただし、横暴にふるまう「王という存在」自体が理不尽なのであるから、全体整合性を取るのは困難であるが。
 たとえば「東京物語」に出てくる(笠智秀が扮する)お父さんのような枯れた雰囲気でリア王が寄食していたとしよう。それなら、ゴネリルやリーガンとて、理不尽に追い立てたりしなかった可能性は残っている。
 また、王の従者や臣下たちも横暴である。伝令として親書を持参したケント伯(この時は追放中で変装しているため、身元は知られていない)も、ゴネリルの臣下(オズワルド)に対して激しく乱暴である。行きがかり上、気に障るところが多かったにせよ、現在の王(ゴネリルは女王ないし王の妃)の使者に対しては礼を失するべきではあるまい。

4)フランス王はなぜドーヴァー海峡を渡って攻め込んできたか。厄介者となったリア王を保護するだけなら、平和的な外交手段で十分に目的を達成できるはずである。

5)そしてまたフランス王はなぜ、ブリテンの連合軍を前にして、新婚の妻コーディリアを残して自らはフランスに引き返したのか。このような状況で指揮官のいないフランス軍(侵入してきた部隊)がブリテン軍と戦えば、高い確率で負けてしまうだろう。妻は、たとえ元ブリテン王女とはいえ、侵入軍と行動を共にしていたとなれば殺されるだろう。これ以上に危急の問題はフランスに存在しないはずだし、百歩譲ってフランスに巨大な緊急事態が生じたならば、ブリテン軍と戦わないで済むさまざまな外交的選択肢があったはずである。

6)前半でリア王に付き従う道化は、後半ではどこに消えたのだろう。リア王とエドガーが気が振れ、あるいは狂人を装っているため、劇の後半は狂人だらけである。だから今さら道化の存在が必要ないのは分かる。が、やはり、気にかかる。これではストーリーの整合性を失いやすい。

7)結末の展開をエドガーとエドモンドとの決闘に委ねるのは、五分五分過ぎて落ち着かない。決闘の結果はどちらに転ぶか、分からなかったはず。しかし、ここでエドモンドが勝ったのでは、ストーリーが静かに終わらないのである。劇を終わらせるために、エドモンドが負けなければならなかった。つまり、劇の都合でエドモンドが死なされたのである。これは、物語としては上出来とは言えない。

8)この物語は、リア王が引っぱり、臣下や娘たちを巻きこんで悲劇の中に突き落としてゆくという筋立てである。先にも述べたように、リアは、「王権を捨てた」のに、今だに「王である」という理不尽な自覚を持ち続けた老人である。ある意味では、娘に冷たくされるところから、リアにとっての本当の現実認識が始まると言える。今まで全く識ろうともしなかった娘たちの真の姿を、リア王が分かりはじめる、そのスタート地点なのだ。つまり、リアにとっては、ここで自己が裸の王様であることを認識して、一個の人間としての人生が始まるのである。主人公は老人ではあるが、一種の教養小説 Bildungsroman の出だしともいわれよう。ところが、この教養小説は主人公が些かも成長することなく、現実の苦難に耐えきれず、気が触れることを自ら選ぶ。これでは、リアの成長は、深まることなく、始まりのところで終わってしまうのである。

 以上の様に、この悲劇の場合、ストーリーの展開の中で不審な状況が目立つ。苦しいストーリー展開の劇である。

 人物の言動にもやや無理ないし不自然なところが目立つ。
 
 しかし、そのような中にあって、不自然なところが無く、生きて輝いている(補注*)のは、この物語に登場するいわゆる悪者たち、コーンウォール公爵やエドモンドである。ゴネリル、リーガンの姉娘二人も、立派なワルである。彼らは、どこにも矛盾の見つからない生きかたをしている。自らの言葉で主張を通し、欲望や怒りを前面に打ち出す。機を見て敏ーーー行動に際しては決して逡巡しない。苦境に至っても無意味に反省することはない。ある意味、自然界に当たり前に生きている動物のような生きかたである。
 しかし、現実の私たちの人生で、コーンウォール・エドモンドやゴネリル・リーガン姉妹などとつき合わねばならない境遇にいれば、我が身の不遇を呪うことになろう。現実人間社会で倫理にかなった生き方を貫こうとすれば、当たり前の道徳や倫理から逸脱している人物たちと付き合うことは苦しい。後述の召使い1のように、勇気をもって正義に従うことで、却って非業の最期を迎えることだってある。

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補注*
マスコミをはじめ現在の世の中では「輝いている」ことはポジティブな評価であるが、私自身は「輝いている」のは良いことと評価していない。むしろ地道で「輝かない」生きかたの方が良いと考えている。

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 「リア王」から多くのことを論ずるのは尚早かも知れないが、シェイクスピアの作品の価値は、そのストーリーの緻密さ面白さではない。むしろ、次々と繰り広げられる「言葉」の巧みさ面白さ、その洪水にあると言えそうである。この物語では気違いトムに扮するエドガーの言葉の中に警句・人生処世訓・粋な表現がきら星のよう散りばめられていて、多くの諺やソネット風断片が間断無く聞こえてくる。それぞれが「シェイクスピア引用・ことわざ事典」に載せられているだろう。今となってはキザな衒学的話しぶりに感じられる。が、当時の聴衆がこれを聴いたなら、本当に驚きしびれたことであろう。そして現代に生きる私たちは、このシェイクスピアの偉大さに圧倒されながらも、身体的には麻痺することなく、無事に全作品を読破してみたいものである。

 さて、最後に、このリア王の物語の中で、本当に価値ある行為が見つかるとしたら、それは SERVANT 1 (補注***)の身を捨てた、主人(補注***参照)の非道を止めるための直諫であろう。行動を通じての、自身の信じる正義への献身である。その部分を以下に引用し、とりあえず今日の「リア王」感想文に一区切り付けることとしたい。(以下、引用)

従者1 待て! お待ちください。私、子供の頃より、閣下(補注***参照。コーンウォール公爵を指す)にお仕えしてまいりました。しかし、これまでのいかなる忠勤も、今黙っていては無に帰しましょう。おとどめなさい、その手を!   ・・・(中略)・・・   ウウ、やられた。見届けてくださったな、残る片目で。せめて手傷を負わせましたぞ。(息絶える)(安西訳、p138)

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補注***
この従者 SERVANT1, 2, 3 はだれの従者か? 安西訳の訳書では明らかでないが、ペリカン版では Servants to Cornwall と明記されている(ペリカン版、p30)。ただし、Bevington 版では Three servants と書かれているだけで、Cornwall 公爵の召使いとは記載されていない(ベヴィントン版、1207ページ)。記載はされていないものの、原文の文脈から、コーンウォール公爵の召使いであることは明らかである。

原書を引用すると以下の通り:(ペリカン版, p115-116; ベヴィントン版1237ページ)

FIRST SERVANT Hold your hand, my lord!
I have served you ever since I was a child;
But better service have I never done you
Than now to bid you hold.

・・・(中略)・・・

Oh, I am slain! My lord, you have one eye left
To see some mischief on him. Oh! [He dies]

補注 最初の My lord は明らかに Cornwall 公爵への呼びかけである。従ってこの召使いは、Corwall 公爵に長年使えていたことになる。ところが、この場面で公爵の非道を止めようとして、剣を抜いて主人の公爵と闘い、手傷を負わしたものの、背中をリーガンに刺され、その場で死んでしまう。その間際に、My lord, you have one eye left to see some mischief on him. と語るのである。この My lord は明らかに Gloucester 伯爵への呼びかけである。

ということを背景にこの場面を考えると、このコーンウォール公爵の召使いは、公爵の非道を止めるために敢えて我が身を危険にさらし、その結果、主人の公爵に手傷を負わせ(その結果、公爵は間もなく死ぬのだから、致命傷といってよい)、自らも主人の妻の手にかかって死ぬ。死ぬ間際には、グロスター伯爵に向かって、多少とも仇討ちできたことを言い残して死ぬのである。子供の頃から使えていたという主人のコーンウォール公爵に恨み言を述べて死ぬのではない。つまり、この召使い1は、倫理的には主人よりも気高く、その倫理の価値の方が、主人の命よりも(そしてもちろん自分の命よりも)大切だと考えており、そのためには自らの命をも犠牲にする覚悟のできている勇気ある気高い人物ということになる。表面的には長年使えた主人に対する反逆になったとはいえ、己れの倫理の価値の方が主従関係よりも価値が高いのである。また、正義を貫いた結果、非道に対する仇討ちとなったことをグロスター伯爵に語って死ぬのである。召使いという身分(現代なら職業だが・・)ではあっても、道徳的に自立した勇気ある人物として生きたのである。たとえ一度も「輝く」ことなく、一生を低い身分の無名の者で終わったとしても、勇気に満ちた行動を行い、そして価値ある最期を選んだ非常の人と言える。(補注: 私の以前の記事、「司馬遷の発憤著書の説・倜儻非常の人」のページを参照下さい) もし、司馬遷がリア王の歴史を書き記すなら、この「無名の」従者の行いをも、必ず記載することであろう。
 シェイクスピアは、ストーリー展開上の結果は重いものの、物語の中でこの人物の扱いは軽い。この従者を虫けらのように扱うコーンウォール公爵夫妻の残酷さが描かれている。グロスター伯爵も、自分のために一人の気高い命が失われたにもかかわらず、この従者の自分のための仇討ちに関しては、何の言及もしていない。身分の壁が大きく立ちはだかっていたのだろうか。シェイクスピアは、この劇の中で名もなき人物の無謀な犬死にとして軽く扱うつもりだったのだろうか。それとも、私の心にこれほどのインパクトを残すのが証拠かも知れないが、シェイクスピアはそこまで計算してこの「正義の人」を描いたのであろうか。他作品をも読み進めながら、振り返っても考えてみたい。

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補注 
 ペリカン版のリア王を書棚に持っている。1985年のリプリント版なので、ずいぶん茶色く変色している。つい数年前にイギリスからの輸入で買った古本である。
 大学生の私が確か20歳頃のことだろうか、ゲーテが「シェイクスピアを年に2冊以上は読んではいけない」とどこかで言っていたのを知って、以来その忠告を私は馬鹿正直に守り、シェイクスピアにのめり込むのは意識的に避けてこの40年を過ごしてきたのだった。しかし、今はその愚かさを薄々感じ始めている。これから長生きすると仮定し、シェイクスピアの作品を通り一遍でもいいから全てを2回通り通読するためには、ざっと概算して年に4冊以上はシェイクスピアを読んでいかなければならない。2回通りと書いたのは、不慮の事故その他を想定し、せめて1回通りは読み通せるようにと、ある程度保険をかける考えによる。本当に2回通り通読するためには、年に8冊は読む方が期待値計算上正しいかと思う。 
 そこで、不必要だった規制は今年から廃止することにしたい。これからどんどん読み進めてゆくこととする。
 また、今までは原書で読むことに拘っていたけれども、これからは日本語訳にも親しんでゆくこととしたい。原書は読書ノートをしたためたり、調べものをしてみたいときなどにできるだけ参照し、さらに、ARKANGEL版の音声資料も役立てながら、進めていきたい。それから、事典も参照したい。すでに数年前からいろいろそろえて準備しているので。

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