コリオレーナス:悲劇になれない諷刺劇

2016年11月21日 月曜日 晴れ

ウィリアム・シェイクスピア、 倉橋健・訳 コリオレーナス 2015/3/13 | Kindle本

シシーニアス
では議事堂へ。民衆が押しかけてこないうちに行きましょう。そうすれば、半分は我々がけしかけてやらせたのだが、全部連中がしたことのようにみえる。(コリオレーナス・第二幕・第三場の最後)

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コリオレーナス
いや、とてもできぬ、そんなことは。自分で自分の真実をけがすわけにはいかぬ。みずからの行動が、ぬぐいがたい屈辱をおのれの心に教えることになる! (同、第3幕・第2場)

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オフィーディアス
・・だが長所などというものは、しょせん、そのときどきの解釈次第、ほめたたえられて権力の座にちても、やがてはその栄誉に輝く権力が自分を葬る墓場となるのだ。火が火を消し、針が針を追いだす。権利は権利につまずき、力は力に敗れる。さ、行こう。ケイヤス(補注 ケイヤス・マーシャス=コリオレーナスの名)、お前がローマを取ったときが、お前のもっともみじめな時だぞ。もうすぐお前はおれのものだ。(同、第4幕・第7場の最後)

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共謀者二
鈍感というか、バカというか、
自分たちの子供を殺されていながら、喉もさけよと万歳を叫んで歓迎していやがる。(同、第5幕・第六場)

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主人公コリオレーナスは紀元前四九一年にローマから追放された武人。(倉橋健、同、巻末の解説より)

「コリオレーナス」においては、ローマという国家の内部になんらの統一的なプリンシプルがなく、またコリオレーナス自身一つの一貫したプリンシプルをもっていない。ローマの意思を示すものが時として市民であり貴族でありコリオレーナスの母であり、その間になんらの必然的で健全な統一はない。・・(コリオレーナス)はただ自分の名誉へのオブセッションにとらえられているという意味で、やはり情熱のとりこにすぎない。・・・(中略)・・・ コリオレーナスは倨傲に災いされ、母の前には脆くも己れの意志を放棄するという弱さに災いされているという意味で、愚かな人間である。・・作者(シェイクスピア)もそのことを認め、しかも、こういう人間がローマに、このわれわれの世界にあるというその現実を円熟した眼差しをもって見つめ、ある種の理解を示そうとしているのではないだろうか。(倉橋健、同、解説より)

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補註 このウェブサイトではできるだけ読んで頂ける方に推薦できるような本を紹介してゆきたいと努めているが、いつもそのような当たりの読書ばかりとも限らない。このコリオレーナスは、内容的にがっかりさせられるものであった。
ベートーベンの作曲したコリオレーナス序曲 ‘Coriolan’ Overture Op 62 Beethoven は、エグモント序曲と並んでよく演奏されているものであり、これを聞く度に、シェイクスピアの作品がどのようなものか一度は読んでみたいと思っていたものではあるが。残念である。

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