喪屋:古代日本人における死の原理

2016年12月28日 水曜日 曇り

吉野裕子 吉野裕子全集 第1巻 扇/祭りの原理 人文書院 2007年(オリジナルは、扇の初刊が1970年、祭りの原理が1972年)

喪屋ーーー古代日本人における死の原理ーーー

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・・ただし人における「生」の場合、東方の常世の国を基点として西方の現世に生まれると考えられたのと同様に、「死」の場合はこの現世を基点として西方に行くことにより、太陽と同じように東方に生まれ変わると信じられたようである。・・現世と常世の国の間、つまり生と死の間にも太陽の洞窟同様、「墓」という穴が必要と考えられた。ここにいう墓は広い意味の「墓」で、このなかには天然の海岸の洞窟、岩屋、山中の穴も、人口の塚・墓・喪屋も含まれる。・・墓という、仮に母の胎と想定された幽所に、胎児として死者を一旦納め、次にその胎児を確実にあの世に新生させること、その一連の呪術的な手筈が葬(とむら)いなのであった。
 そこで重大なのは、まず死者と生者をはっきり別つこと、及び人間生誕の前提条件となった事柄を裏返しにして死者の上に行い、死者をあの世、つまりニライカナイに新生させることであった。・・そこで生者と死者を分かつための呪術が繰り返され、そのための禁忌が厳守される。これが一つ。もう一つは生誕の前提条件たる性交・妊娠・出産の過程を擬(もど)いて死者を彼の世に確実に新生させることであった。そのためには生者である会葬者が仮に彼の世に行って死者をそこへ迎え取る真似をする、そんな呪術さえ行ったと思うのである。それだから古代人にとって、「死なれること」とは、身心をさいなまれる悲傷事であると同時に、先述の至上命題を、死者のためにも生者のためにも即刻実行すべき重大な時でもあった。悲傷と呪術実行が重なり合った非常の時、それが葬(とむら)いではなかったか。
 神話や古俗にその片鱗をのぞかせる古代葬儀の中にある矛盾は、人間本来の悲しみと、呪術としての歌舞、歓楽がないまぜになっている処から生じているのではなかろうか。その古代日本における「死」の原理を、沖縄に今も残る古俗から考察してみることにする。(吉野、同書、p220-221)

方位ーー西
性ーーー女
 方位と性が葬礼の中に深い関わりをもっているのは、この二者が葬(とむら)いの本質にあるからであって、決して偶然ではない。(吉野、同書、p222)

屈膝・足から先に墓に入れること、及び三角形
 遺体を胎児として墓におさめるからには、当然それは胎児そっくりの姿勢をとらせるであろう。それが屈葬である。通説は死者の霊を抜け出させないためというが、私は屈葬は胎児を擬(もど)く形体であると考える。死者を墓におさめるときは足から先に入れるという。胎児の姿勢は足が奥になる。それでこれも胎児の姿形を擬(もど)いていることになる。
 沖縄では、死者に三角形の袋をもたせる。本土でも三角に折った紙を「額当て」といって遺体と近親者がつける例は枚挙にいとまがないほど多い。三角はこの場合心臓形を模しているともいわれるが、亡者と三角の因縁がふかいのは、三角が女陰の象徴であるからであろう。死者を胎児として母胎におさめ、新生させるのが葬礼だから、三角が葬(とむら)いに出る頻度も高くなるのである。(吉野、同書、p226)

・・その一方において古代人は生と死を峻別した。生者と死者、祖霊と人間は祭りの時にのみ交わりをもつ。それ以外の時と処での混交は極端に嫌った。そこで前述のように会葬者が仮にあの世に行って死者を迎え取ったことにする。それほど死者を確実にあの世に新生させたい。この世の者たちとはっきり、しかも早く分かちたいのであった。(吉野、同書、p226-227)

岩戸がくれ神話
・・その基底にあるものは死の古代原理を拠り処として行われた一連の葬(とむら)い呪術の描写であろう。(吉野、同書、p230)

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