literature & arts

Dickens, Great Expectations (4)

2017年3月8日 水曜日 朝は快晴・のち曇り・ときどき陽射し・雪ちらほら、この北国にとっては当たり前の天気を何と表現したらよいのやら。北国は冬の終盤のこれから2か月である。

**

Charles Dickens, Great Expectations, 1860-1861; Penguin Classics, 1996, 2003.

ディケンズ 大いなる遺産 石塚裕子訳 岩波文庫 赤229-9、229-10 2014年

**

今日は文学のテーマと言うよりは、英語の翻訳に関する話題である:

**

The second of two meetings referred to in the last chapter, occurred about a week after the first. I had again left my boat at the wharf below Bridge; the time was an hour earlier in the afternoon; and undecided where to dine, I had strolled up into Cheapside, and was strolling along it, surely the most unsettled person in all the busy concourse, when a large hand was laid upon my shoulder, by some one overtaking me. It was Mr. Jaggers’s hand, and he passed it through my arm. (ibid, p387-388)

The second of two meetings (補註 石塚訳 下巻p265では「相談」となっているが、「出会い」ぐらいの訳の方が実情に合っていると思う。というのは、一回目のミスター・ウォプスル、二回目のミスター・ジャガースともに偶然に出会って情報交換したわけであるから。) referred to in the last chapter, occurred about a week after the first. I had again left my boat at the wharf below Bridge (補註 ロンドン・ブリッジ。石塚訳でも大文字のブリッジをロンドン・ブリッジと訳している); the time was an hour earlier in the afternoon (補註 石塚訳・下巻p265では「午後の約束の時間にはまだ1時間ほど早かった」となっているが、以下の文章で明確に書かれているように、ピップは約束もなく当てもなく都会をさまよい歩いているのである。よって、ここの石塚訳は誤訳。といって、私も自信がない。「たとえば午前11時前後で、午後までには小一時間ばかりもあるような、そんな時刻と考えてはどうだろうか。ただ、この午後というのが、正確にお昼の12時以降を指すのか、もっとアバウトに午後の仕事が始まる1時とか2時前後を指すのか・・後者の可能性もありそうな気がする。まあ、素直に”お昼までには一時間ばかりもある時刻であった”と訳しておこうか」・・・と考察した後、次を読んでいくと、街に明かりが灯り始める、明らかに夕暮れ時の情景なのである。an hour earlier in the afternoon は、午後の中に1時間残っている状況、2月のロンドンであれば、夕方の3時半ないし4時ごろを想定すべきなのであろうか。しかし、これで文法的に正しい気がしない。何に対して1時間早いのだろうか。全くわからない。わからなくても訳さなければならないのが翻訳者の務めだとすると、冷や汗で下着を日に何度も取り替えなければならない職業である。); and undecided where to dine, I had strolled up into Cheapside, and was strolling along it, surely the most unsettled person in all the busy concourse, when a large hand was laid upon my shoulder, by some one overtaking me. It was Mr. Jaggers’s hand, and he passed it through my arm. (ibid, p387-388)

**

その(モリーの)眼差しは一途だった。間違いなくぼくはつい最近、あの忘れがたい折りに、これとそっくりの眼差しと手とを見たばかりだった。(石塚訳、下巻・p271)

Her look was very intent. Surely, I had seen exactly such eyes and such hands, on a memorable occasion very lately! (ibid, p390)

補註 上記で言及されている場面は、(私の今の読みでは)以下のところであろう。

エステラさんは怪訝そうな驚いた表情でぼくを見つめていた(石塚訳、下巻・p220)

 My earnestness awoke a wonder in her that seemed as if it would have been touched with compassion, if she could have rendered me at all intelligible to her own mind.(ibid, p363)

But ever afterwards, I remembered — and soon afterwards with stronger reason — that while Estella looked at me merely with incredulous wonder, the spectral figure of Miss Havisham, her hands still covering her heart, seemed all resolved into a ghastly stare of pity and remorse. (ibid, p365)

*****

2017年3月9日 木曜日 雪

「大いなる遺産」を読み終えて:
第3部の最後の2章でさまざまな(といっても主に二つの)課題・サスペンスに解決が与えられるのであるが、そこに読み進む前に、私なりの予想を立ててみた。ネタバレになるので詳細は記載しないが、何と、私の予想が二つとも当たっていたのである。恐らく、そこに至るまでの随所で示唆的な書き方がしてあったので、私のような者でも終わりを予想して当てることが出来たのだが、一方で、主人公のピップ自身は最後まで間違い続けていたことになる。こんなことでは、それから先だっておぼつかないじゃないか、大丈夫なのか?

ところで、すでにオーウェルのディケンズ評(1939年)を再々読んで知悉している私からの自問自答: 

この小説を通じて、ピップは成長したのであろうか。教養小説、ビルドゥングスロマンになっているのであろうか。

時間をかけて折々考えてみたいが、直感的には、ピップは完成品であり、小説の結末まで読み来たっても、そして結末以後の人生行路でもピップは基本的に「変わらない」と思う。というか、変わっていくところは全くディケンズの描けていないところであり、最後の場面に至るまで、ピップはピップのまま。

一方、エステラさんには11,2年の歳月を通して大きな変化があったはずなのだ。これは最後の一章がほぼ別人のエステラさんの出現に当てられているから自明である。深い謂われがなければこうはならない。が、これまたディケンズが描かなかった世界なのである。

マーク・トウェインが父親殺しの周囲を旋回しながら決して描くことが出来なかったように、ディケンズも成長する・深まる魅力的な女性の生涯の存在を匂わせながらも、ほんの一行たりとてその因果を描くことが出来なかったのかも知れない・・という予感がよぎるのである。では、男性ならば? そもそも成長って一体何を指して? ・・これらについては、また改めて書いてゆきたいと思う。

とりあえず、ディケンズの2冊目を読み終えたことを記録して、本日は終了。

**

2017年3月12日 追記

成長しない主人公たち・・思い浮かぶものは多いが、何といっても代表は、我が日本の東海道中膝栗毛・主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』の二人である。ウィキペディアによると・・・文学的な価値とともに、文才とともに絵心のあった作者による挿絵が多く挿入され、江戸時代の東海道旅行の実状を記録する、貴重な資料でもある、とのこと。さらに、「本書は初出版から完結まで何年もかかっているが、記述された弥次喜多の江戸から大坂までの旅のストーリーの時間軸は、13日間である。一九はさらに後続の『続膝栗毛』シリーズを書き、弥次喜多は、金比羅、宮嶋、木曾、善光寺、草津温泉、中山道へと膝栗毛する。『続膝栗毛』1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行され21年後にようやく完結した。さらに日光東照宮に向かう『続々膝栗毛』も書かれたが、こちらは作者の死去により未完に終わった」とのことである。

13日間の旅であってみれば、弥次さんも喜多さんも成長しなくても構わないのだが、この二人の「懲りない」性格を考えれば、金比羅、宮嶋、木曾、善光寺、草津温泉、中山道へ旅しても、財布の中身の逆成長以外には、ほとんど成長することなく、読者を楽しませ続けてくれるような期待がある。

そう、変わらず、本のページを開けば懐かしいその人に会える、・・そんな邂逅の書物との付き合いも、また一つの楽しみ方であろう。ディケンズ本にはそんな役割も引き受けてもらうことになるかも知れない。ちなみにチャペックさんは歯が痛くてたまらないときに、ディケンズ本を開く、そして慰められた・・とのこと、こんなところでも私はチャペックさんに親近感を深めたのである。(2017年3月12日追記)

**

**

********************************************

RELATED POST