ディケンズ ドンビー父子(5)

2017年4月21日 金曜日 曇り(晴れ間あり・気温は低く風は寒い)

ディケンズ ドンビー父子 田辺洋子訳 東京こびあん書房 2000年

Charles Dickens, Dombey and Son, Penguin Classics, 2002 (First published in 1848) 原作は1846年10月から48年4月まで月刊分冊形式で刊行され、表紙を飾った正式名は Dealing with the Firm of Dombey and Son, Wholesale, Retail, and for Exportation (卸し、小売り、貿易業「ドンビー父子商会」との取り引き手控え)

補註 二週間前にオーダーしたペンギン・クラシックス版のドンビー父子、本日到着。訳本を読みながら、原書の該当個所も参照することができるようになった。

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‘No! Who takes me, refuse that I am, and as I well deserve to be, shall take me, as this man does, with no art of mine put forth to lure him. (ibid., p432)’

補註 ここのところの英語は、私には難解である。
(1)’Who takes me, shall take me, as this man does, with no art of mine put forth to lure him.’ これだけであれば、 shall の用法ニュアンスさえ弁えていれば素直に理解できる。
(2)問題は、 refuse that I am, の部分である。refuse の品詞が何であるか? 辞書の出番である。愛用のウィズダム英和を引いてみると、
refuse (seの発音は/s/)名詞U 廃棄物、ごみ、くず [形容詞的に]廃棄物の、ごみの
という別の意味がある。これなら明解であり、
me, refuse that I am,
つまり、me と refuse が同格で並んでいるのである。
(3)これがわかれば、refuse that I am, and as I well deserve to be, も素直に理解でき、 I well deserve to be refuse と畳みかけて自己を蔑んでいるのである。
(4)このEdith(この名前はイーディスと発音する)女史の厳しい自己批判は、先に紹介した「ハードタイムズ(1854年の作品)」で、「ルイーザが大雨の夜、一人、汽車に乗ってコークタウンの実家に戻り、父のグラッドグラインド氏に会ってすぐに訴え語る言葉」をすぐに思い出させる。あるいは、「大いなる遺産(1860-61年の作品)」のヒロイン、エステラの不幸な結婚を思い出させる。ディケンズの他の作品で捜さなくても、この「ドンビー父子(1848年)」のフローレンスとポールの姉弟の母もドンビー氏と不幸な結婚をしたことであろうことが、この長い小説の冒頭で描かれている。してみれば、ディケンズは長年にわたって繰り返し、このような不幸な結婚を描き続けているのである。ディケンズのヒロインたち、ドンビー妻、イーディス、ルイーザ、エステラ、彼女たちは不幸である。不幸を隠すために硬い表情の仮面を被っているのである。
 オースティンの主人公たちが同じような社会に囲まれ同じような価値観のなかで生きていて、それなりに自己批判もできて、なおかつそれなりに幸せに伴侶を選び、家族のなかで、また社会のなかで、折り合いを付けて、それなりに幸せにやっているのと、実に好対照である。

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