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オーウェル 「ガリヴァー旅行記」論考

2017年4月15日 土曜日 曇り

ジョージ・オーウェル 政治対文学ーー「ガリヴァー旅行記」論考 オーウェル評論集3鯨の腹のなかで 川端康雄編 新装版 平凡社ライブラリー691 2009年

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ガリヴァーがフウイヌム国を去るいきさつには、スウィフト自身の態度がもっと微妙な形で現れている。スウィフト自身、少なくとも断続的には一種のアナキストだったし、「ガリヴァー旅行記」の第四巻は、いわばアナキスト社会を描いたものであり、そこを支配するものは、普通の意味における法律ではなく、だれもが進んで受け入れる「理性」の命令なのだ。・・・(中略)・・・ガリヴァーの主人は、服従することをやや渋り気味だが、この「勧告」(フウイヌムは、何をするにせよ、けっして強制されることなく、ただ「勧告」あるいは「忠告」されるだけだという)を無視するわけにはいかない。これはアナキストや平和主義者の社会観に含蓄された全体主義的傾向を非常によく示している。法律もなく、また理論上強制もない社会では、世論だけが行動を調停する。しかし群居性動物には順応へのものすごい衝動があるため、世論はいかなる法律体系よりも非寛容なものとなる。人間が「なんじ犯すなかれ」という戒律に支配されているかぎり、個人はある程度とっぴな言動を実行できる。もし人間が「愛」や「理性」に支配されているはずだとすれば、個人は他のすべての人とまったく同じ行動、同じ思考をするようにたえず圧力をこうむるわけだ。(補註)フウイヌムたちは、ほとんどすべての問題について、満場一致の合意をみたそうだ。討議されたことのある問題といえば、ヤフーの扱い方だけであった。ほかの問題については、意見の相違を生ずる余地がなかった。(オーウェル、同書、p271-273)

補註 もし人間が「愛」や「理性」に支配されているはずだとすれば、個人は他のすべての人とまったく同じ行動、同じ思考をするようにたえず圧力をこうむる: オーウェルの論考の進め方にある程度納得するとはいえ、私はこの流れに合意することはできない。「愛」や「理性」に支配されていて、なおかつ「自由」が羽ばたく活き活きとした世界が理想として想い描かれるからである。「百の天才が並び立つ」そのようなのびのびした人間の世界である。

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