兼好と法然

2017年5月10日 水曜日 曇り

補註 週末、二泊の帰省。札幌に帰って来た。ここ数日は、その疲れから抜けだせない。

さて、私のふるさと・美作(みまさか)の国、久米南町(くめなんちょう)には誕生寺という地名がある。この地で生まれた我が郷土の偉人といえば、法然上人が筆頭である。法然上人に関する資料を見つけたならばできるだけノートに取っておこうと考えている。小浜さんのサイトで徒然草の引用があったので、有名なものではあるが、ここに引用しておきたい。

**

小浜逸郎さんのブログサイトより: 誤解された思想家・日本編シリーズその6 兼好法師の②
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/7d0e626dd359c4ca4c2709815297bc19 より以下引用:

一方では、次のように、偉い坊さんの寛容で人間味のあるさまをほめたたえている段もあるのです。

《ある人、法然上人に、「念仏の時、睡りにをかされて行を怠り侍ること、いかがしてこの障りをやめ侍らん」と申しければ、「目の覚めたらんほど念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。》(三九段)

《法顕三蔵の、天竺に渡りて、故郷の扇を見ては悲しび、病に臥しては漢の食を願ひ給ひけることを聞きて、「さばかりの人の、無下にこそ心弱きけしきを人の国にて見え給ひけれ」と人の言ひしに、孔融僧都、「優に情けありける三蔵かな」と言ひたりしこそ、法師のやうにあらず、心にくく覚えしか。》(八四段)

 つまりは、兼好のような資質の人間の人生にとって、自分が出家僧であることは、それほど重い意味を持たなかったと言えます。(以上、小浜逸郎さんのサイト 兼好法師② より引用)

兼好の思想をあえてひとことでまとめよとならば、要するに、愚かな跳ね上がりを排して、寂かに伝統と向き合う健全な常識に還れということに尽きるでしょう。しかしそれを説くことの思わぬ難しさに気づいていた彼は、多くの矛盾をも顧ず、具体的なあの場面、この場面を持ち出しては、それにあくまでも即しつつ鋭い批判、批評を加えたのだと思います。(小浜逸郎 誤解された思想家・日本編シリーズその6の③
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/77c1ef66a208d17948791f174d115c5e より引用)

**

補註 法顕 ウィキペディアによると・・・
法顕(ほっけん、337年(咸康3年) – 422年(永初)3年)は、中国東晋時代の僧。姓は龔、平陽郡武陽縣(今の山西省)の人。仏教の学究を進めるにしたがい、経典の漢語訳出にくらべて戒律が中国仏教界において完備しておらず、経律ともに錯誤や欠落があるのをなげき、399年(隆安3年)、慧景、慧応、慧嵬、道整等の僧と共に長安からインドへ求法の旅にたった。途中ホータン王国を経由しつつ6年かかって中インド(中天竺)に達し、王舎城などの仏跡をめぐり、『摩訶僧祇律』、『雑阿毘曇心論』などをえて、さらにスリランカにわたり、『五分律』、『長阿含経』などをもとめた。413年(義熙9年)海路(南海航路)で青州(今の山東省)へ帰国したが、帰国できたのは法顕のみであった。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

補註 誕生寺(というお寺について)は・・平家物語でお馴染みの坂東武者・熊谷直実(法力房蓮生)が建立したとのこと・・ウィキペディアによると・・・
誕生寺(たんじょうじ)は岡山県久米郡久米南町にある法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院。山号は栃社山(とちこそさん)。本尊は圓光大師(法然没後しばらくして、朝廷から贈られた大師号)。坂東武者・熊谷直実は法然の弟子となり出家し法力房蓮生と名乗った。蓮生は建久4年(1193年)法然の徳を慕い法然の父である久米押領使・漆間時国の旧宅、すなわち法然生誕の地に寺院を建立した。これが誕生寺の始まりである。かつては誕生律寺と呼ばれており、御影堂の扁額は「誕生律寺」と掲げられている。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

*****

********************************************