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E.M.フォースター 小説とは何か

2017年5月16日 火曜日 雨

ジョージ・エリオット ミドルマーチ I 工藤好美・淀川郁子訳 ジョージ・エリオット著作集 4 文泉堂出版 平成6年(世界文学全集30 講談社版)(Hs大学図書館の整理番号は938-E4)

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2017年5月24日 水曜日 雨(M市では早朝からしとしとと屋根を打つ小雨が続いている。一方S市では道路が乾いているどんより曇り空。雨雲が東西に帯のように伸びながら東へ進むので、天気予報は当たりにくいのである。)

E.M.フォースター 新訳・小説とは何か 米田一彦訳 現代小説作法シリーズの一冊 ダヴィッド社 1969年(オリジナルは1927年の春のケンブリッジでの連続講義を本にしたもの)

補註 新訳とは銘打ってあるものの訳者の米田氏は1913年生まれ。訳書の日本語表現には時に時代を感じさせられることがある。

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ジョージ・エリオット vs ドストエフスキイ

ミーチャは円球人物ですが、しかもひろがることができます。彼は何も隠しはしません(神秘的ではありません)。彼は何を意味するのでもありません(象徴的ではありません)。彼はただ単にドミトリ・カラマゾフなのです。しかしドストエフスキイの作品ではただ単に一個の人物であるということが、はるか背後に控えているすべての他の人間どもといっしょになることなのです。それなればこそあのおどろくべき流れが突然流れ出しますーーーわたくしにとっては<わたしはいい夢を見たんですよ、みなさん>というおわりの言葉の中で。わたくし自身もまたあのいい夢を見たのでしょうか? いや、そうではありません。ドストエフスキイの作中人物は、何かしら彼ら自身の経験よりも深遠なものを、われわれ読者が彼らとともにすることを要求します。(フォースター、同訳書、p164)

大事なのは、彼(補註:=ミーチャ)の声の調子、彼の歌です。ヘティ(=ジョージ・エリオットの小説「アダム・ビード」の登場人物)も獄中でいい夢を見たかもしれません。そしてそれが彼女らしい、申し分なく彼女らしいことでしょう、しかしその夢はそれだけでぷつりとたち切れてしまいます。ダイナ(=同じく「アダム・ビード」での登場人物・メソディスト)はよかったわねというでしょうし、へティはその夢を物語るでしょう。だが、その夢は、ミーチャの夢とはちがって、筋の転機と論理的につながっているでしょうし、ジョージ・エリオットはいい夢について概括的に何か健全で同情的なことを、そうした夢が悩める胸に与える説明しがたく有益な効果を述べるでしょう。この二つの場面、二つの小説、二人の作家は、こういうわけで全然おなじでありながらも絶対的に異なっているのです。(フォースター、同書、p165)

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ハーディ & コンラッド

コンラッドもおよそハーディに似た位置に立っています。声、マーロウの声は、歌わんがためにはあまりにも経験にみちています。それは過ちや美しさの多くの回想のためにさえない声になり、その声の持ち主はあまり多くのことを見たがために因果の連鎖を超えて物を見ることができません。哲学ーーそれがハーディやコンラッドのような詩的で情緒的な哲学でもーーそれを持っていれば自然と人生や事物について思索することになります。予言者は思索しません。それに彼はこつこつ努力することもしません。(フォースター、同書、p167)

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予言者

予言という様相を例証するものとしては、わたくしは四人の作家しか思いつきませんーードストエフスキイ、メルヴィル、D.H.ロレンス、エミリー・ブロンテです。(同、p168)

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エミリー・ブロンテ

・・なぜ<嵐が丘>をこの研究で取り扱わねばならないのでしょう? それは人間たちについての物語で、どのような世界観も持っていないのです。
 それにたいするわたくしの答えはこうです。ヒースクリフとキャサリン・アーンショウの熱情は普通の小説における他の熱情とはちがった作用をするのです。彼らの熱情は彼らという作中人物の中に宿ることなく、雷雲のように彼らを取り巻き、ロックウッドが窓の手の夢を見る時からヒースクリフがそのおなじ窓を開けたままで死んでいるのが発見される時まで、その小説をみたしているいろいろの爆発を生み出すのです。<嵐が丘>は音にみちていますーーそれは嵐や疾風の音であり、その音が言葉や思想よりも大切なのです。この小説は立派なものですが、われわれは読後にヒースクリフや母親の方のキャサリンの外には何も思い出すことができません。この二人は、引き裂かれることによって筋を作り出し、死後の結合によって筋を完結します。この二人が<幽霊になって出る>のも怪しむにたりません。ほかに何をすることができるでしょう? 生前でさえ彼らの愛憎は彼らを超えていたのです。(フォースター、同書、p176)

・・それならば、なぜ彼女(=エミリー・ブロンテ)はわざわざ乱脈・混沌・嵐を導き入れたのでしょう? 彼女がわれわれのいう意味で予言者だったからです。彼女にとっては含蓄されているものの方が表現されたもの以上に大切だったからです。そして混乱の中にあってのみヒースクリフやキャサリンという人物は彼らの熱情を具体化することができ、その熱情が家の中を通り抜け高原を掩うて流れたのです。<嵐が丘>にはこの二人が提供する以上の神話は存在しません。すぐれた小説でこの小説ほど天国や地獄についての一般概念から切りはなされたものはありません。この小説はそれが生み出すいろいろの精霊とおなじく、地方的なものです。われわれはどこの池でもモゥビー・ディックに出会うでしょうが、このような精霊たちに出くわすのは彼らの故郷の州のマルバギキョウや石灰石の中においてのみでしょう。(フォースター、同訳書、p176-177)

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