陶淵明:本職は畑仕事

2017年5月12日 金曜日 晴れ(暖かくて汗ばむほどの陽気となった)

下定雅弘 陶淵明と白楽天 生きる喜びを歌い続けた詩人 角川選書508 平成二四年(2012年)

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(陶淵明の)「時運」という詩は、晩春、郊外に散歩に出かけた時の感慨を詠ったものだが、その序に「時運は、暮春に遊ぶなり。春服既に成り、景物、斯(こ)れ和す(補註#)」・・と「論語」の「暮春」「春服」の語をそのまま用いている。詩の中でも、「遠く川の中流に目をやれば、「論語」にいうあの清らかな沂(き)の川の流れが目に浮かぶ。往時、そのほとりを共に授業を受けている元服前後のわかものたちが、のどかに詩を吟じながら帰ってきたのだろう」と、「論語」の情景へのあこがれを詠っている。(下定、同書、p11)

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補註# 陶淵明の「時運」 原文をウェブサイトhttp://ft.shicimingju.com/chaxun/list/923029.html から引用する:
序:時運,遊暮春也。春服既成,景物斯和,偶景獨遊,欣慨交心。

補註##
其三 http://ft.shicimingju.com/chaxun/list/923029.html
延目中流,悠想清沂。
童冠齊業,閒詠以歸。
我愛其掙,寤寐交揮。
但恨殊世,邈不可追。

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淵明にも悩みがあった
 淵明には二つの大きな悩みがあった。一つは官界への未練である。今一つは、死への恐れと悲しみである。この二つは、淵明に至るまでの中国の思想と文学が抱えてきた最も大きな問題だが、淵明はこの大問題を引き受け、これを乗り越えようとしている。彼の文学は、実は死に至るまでこの二つの大きな問題を基調低音として響かせている。(下定、同書、p14)

淵明は、官界への未練と戦い、避けることのできない死を深く見つめつつ、田園に農夫として暮らし、様々な人として生きる喜びを発見し、詠いつづけた。(下定、同書、p14)

・・官界に関わるその初めからして、淵明には、官界を名利の世界として遠ざける思いが強く同居していたのである。(下定、同書、p18)

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この、役人になろうとしたのはなぜなのか、そして結局は役人になるのをやめ、農夫として生きたのはなぜか? ということは、淵明の一生と文学を理解する上で根本的な問題である。ここの捉え方が、淵明の一生と文学、その本当のところを理解できるか、そうでないかの分水嶺といってかまわない。(下定、同書、p19-20)

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隠逸詩人ではない、農業が仕事
・・私は、淵明を「隠逸詩人」というのは、淵明を正しく言い当てた言葉ではないと思う。・・・(中略)・・・淵明はその生前において隠者として高名だった。だが、周囲の評価と淵明自身の考え及び実態とは区別しなければならない。 淵明の詩文をみると、彼自身、故郷に帰って農業に従事することを、「帰田」といい、「帰園田」という。・・ 淵明の「帰田」はそう(隠逸)でない。「帰田」を決意する前において、すでにそうである。例えば、「雑詩」其の八に「役人暮らしはもともと希望するところではなく、畑仕事と養蚕こそ本職と心得ていた」というように、淵明の「帰田」は、その語の通り田園に帰って農耕に励むことである。故郷に帰った時の作「園田の居に帰る」においては、農耕に従事することがいっそう明確に語られている。其の一には、「村の南の荒れ地を開墾しようと、世渡り下手を守り通して田園に帰ってきた」といい、其の二には、「互いに余計なことはいわず、ただ桑と麻の成長ぶりを語るだけ」といい、其の三には、「朝早く起きて雑草を抜き、月の光をあびながら鋤をかついで帰路に就く」といっている。このように、淵明の「帰田」には農耕の実態がある。それは世から隠れ逸(のが)れることではない。淵明の「帰田」には、官界を断ち切って、田園という自分本来の生活の場、自分にふさわしい社会にもどっていくのだという思いがこめられている。(下定、同書、p25-26)

淵明の生活の実際には、あくまで農夫としての仕事が組みこまれていたし、彼はその苦しみも喜びも共に受け入れて、自己の生活・自分の社会を築いていったのである。「隠逸」というのは官界を表と見た言い方である。官界に生きることこそが表街道で、淵明を官界を去った隠士と見るならば、淵明の農業に対する態度が実体を持たない空しいものになってしまう。淵明を隠士として見る立場からは、淵明の文学が持つ人間の真実についての豊饒(ほうじょう)を明らかにすることはできない。以下、農耕に従事することがもたらす喜びの数々を見よう。(下定、同書、p28)

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補註
孔子の論語 先進 子路、曾皙(そうせき)、冉有、公西華、侍坐す: 原文と当該部分の読み下しと現代語訳を http://blog.mage8.com/rongo-11-26 ちょんまげ英語日誌 より、以下引用。

子路曾皙冉有公西華、侍坐、子曰、以吾一日長乎爾、無吾以也、居則曰、不吾知也、如或知爾則何以哉、子路率爾對曰、千乘之國、攝乎大國之間、加之以師旅、 因之以飢饉、由也爲之、比及三年、可使有勇且知方也、夫子哂之、求爾何如、對曰、方六七十、如五六十、求也爲之、比及三年、可使足民也、如其禮樂、以俟君子、赤爾何如、對曰、非曰能之也、願學焉、宗廟之事、如會同、端章甫、願爲小相焉、點爾何如、鼓瑟希、鏗爾舎瑟而作、對曰、異乎三子者之撰、子曰、何傷 乎、亦各言其志也、曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸、夫子喟然歎曰、吾與點也、三子者出、曾皙後、夫三子者之言 何如、子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何哂由也、子曰、爲國以禮、其言不譲、是故哂之、唯求則非邦也與、安見方六七十如五六十而非邦也者、唯赤則非邦也 與、宗廟之事如會同非諸侯如之何、赤也爲之小相、孰能爲之大相。

点(てん)よ爾は何如。瑟(しつ)を鼓(ひ)くことを希(や)み、鏗爾(こうじ)として瑟を舎(お)きて作(た)ち、対えて曰わく、三子者(さんししゃ)の撰(せん)に異なり。子の曰わく、何ぞ傷(いた)まんや、亦(また)各々(おのおの)其の志しを言うなり。曰わく、莫春(ぼしゅん)には春服(しゅんぷく)既に成(な)り、冠者(かんじゃ)五六人(ごろくにん)、童子(どうじ)六七人(ろくしちにん)を得て、沂(き)に浴(よく)し、舞雩(ぶう)に風(ふう)して、詠(えい)じて帰らん。夫子喟然(きぜん)として歎(たん)じて曰わく、吾は点に与(くみ)せん

つづいて孔子は、
「曾皙(そうせき)、お前はどうだ?」
と尋ねられると、曾皙は弾いていた瑟(しつ:弦楽器の一種)を止めて下に置き、立ち上がって答えました、
「私の願いは御三方とは違います。」
孔子が、
「遠慮するな、ただの願望だ。」
と促すと、曾皙は、
「春の終わり頃に春服を着て、成人の友人五六人、少年六七人と一緒に沂水(きすい:川の名前)に水浴びに出かけて雨乞いの舞台で涼み、歌を歌いながら帰ってまいりたいと思います。」
と答えました。孔子はこれに感心して、
「私の願いも曾皙と同じだ。」
とおっしゃいました。(<以上、「ちょんまげ英語日誌」さんのサイトより部分引用終わり>
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