ディケンズと消費者の都市ロンドン

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

ディケンズが農業のことはぜんぜん書かないのに、食べ物についてはいくらでも書いているのは、単なる偶然ではない。彼はロンドンっ子で、ロンドンは、胃袋が体の中心なのと似たような意味で、世界の中心なのである。ロンドンは消費者の都市、つまり教養はきわめてゆたかだが根本的には役立たずな人間の都市なのだ。ディケンズの作品の表面を一皮剥いでみると、一九世紀の小説家としてはいささか無知な印象を受ける。物事が怒る本当の仕組みが、彼にはほとんどわかっていないのだ。一見、この説はとんでもないでたらめと思えるだろうから、多少説明しなければなるまい。(オーウェル、同訳書、p106)

ディケンズは・・庶民の行動の動機、愛情、野心、貪欲さ、復讐などを描くのに苦労はしないのである。だが労働については書かないという点がはっきり目につくのだ。(同、p107)

・・ところが、一ページ一ページの内容となると、誰もが死ぬまで覚えているのではないだろうか。ディケンズが人間を見る目はこの上なく鋭く、鮮やかである。だが、それはつねに個人として、ひとつの「性格」として人間をとらえるのであって、社会の構成員として見てはいないのだ。つまり静的に見ている、ということになる。・・・(中略)・・・ その人物たちに行動をとらせようとすると、とたんにメロドラマが始まる。当たり前の仕事を軸にして行動させることができないのである。だからこそ、まるでクロスワード・パズルのように偶然とか陰謀、殺人、変装、埋もれていた緯書、行方不明だった兄弟といったものが必要になる。(同、p109)

**

彼(=ディケンズ)の道徳感覚が狂うことはぜったいにない。だが知的好奇心のほうは皆無にひとしかったのだ。ここまで話がすすんだところで、われわれはディケンズのほんとうに大きなある欠陥、いかにも一九世紀の遠さを思わせるものに、ぶつかることになるーーーすなわち、彼には仕事というものについての理想がないのである。(オーウェル、同訳書、p114)

「善良」でかつ自立しているならば、株の配当だけで五十年暮らしたところで悪いいわれはないのだ。いつでも家庭生活さえあれば充分なのである。これが結局、彼の時代の世間の通念だったのだ。「上流階級のゆたかさ」、「資産」、「独立の生計をいとなむ紳士」(あるいは「安楽な境遇の」でもいい)−−−こういう言葉そのものが、十八-十九世紀中流ブルジョワの、奇妙で空疎な夢のすべてを語っている。これは完全な怠惰という夢である。(オーウェル、同訳書、p117)

・・だが毎年子供が生まれる以外には何事も起こらない。不思議なのは、これがほんとうに幸せな光景になっていること、あるいはディケンズの手にかかるとそう見えてくることだ。彼はこういう生活を考えるだけで満足なのである。それだけでもう、ディケンズの処女作(補註:1835年前後)が出てから百年以上たっている(補註:オーウェルがこのディケンズ論をものしたのは1939年)ことは充分わかるだろう。現代の人間には、こんな目標のない生活にあれほどの活気をあたえることはとうていできまい。(同、p120-121)

**

*****

********************************************