小説の作者は技術者だ。

2017年8月20日 日曜日 未明(霧)

P.ラボック 小説の技術(The Craft of Fiction) 佐伯彰一訳 現代小説作法シリーズ ダヴィッド社 1957年(原著は1921年)

・・小説を扱う批評の任務は、とにかく、明瞭だ、と思われる。われわれが小説の組み立てという問題をしかと捉え、効果的にその探究を進めるまでは、小説に関して有用な発言は出来ない。小説について語る際、つねに、われわれを妨げるのは、いわゆる小説の技術面に対する無智であり、したがってまた、これこそ、われわれのぶつかってゆくべき面なのだ。・・・(中略)・・・われわれが是が非でも見たいものは、作者の才能や素養のみならず、その作品なのだーーところで、作品をしかと眺めようとすれば、われわれの力で再創造せねばならぬ。そして、永続的に再創造するための、唯一つの明確な道というのはーー技術を研究し、その過程を追い、構成に注意して読むことだ。この方法の実践こそ、現在の私にとって、正直なところ、小説批評の唯一の興味なのである。小説家に関する論議も、作品自体を真に、明瞭かつ正確に眺めるまでは、そこに何一つ新しいものは期待できまい。
 そして、結局真に、明瞭かつ正確に眺めることは不可能であるーーこれは確かだ。作品というものは、われわれがその上に手をおくと、消えてしまう。・・・(中略)・・・だが、それにしても影の間に、われわれを誘う一条の光が、きらめいている。・・もしそうなら、その可能性はいまあげた方向にこそ存在しているにちがいないと思われる。小説の作者は技術者だ。批評家は、彼をその仕事場で捕らえて、いかにして小説が作られたかを、見なければならぬのである。(ラボック、同書、p206-208)

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小説家は、その(=小説の)扱い方の中に含まれている無尽蔵の機会を、そのまま見逃すはずもあるまい。・・安易な道は、道とはいえぬ。唯一の道は、語ろうとする物語を一番よく生かす道であり、選ばれ、鍛錬を加えた方法によらずしては、物語を生かすことなど、出来ないのである。(ラボック、同書、p201)

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多くの小説論議は、じつは、小説論ではないのです。・・・(中略)・・・では、小説そのものを、どうして捉え、どうして論ずるか、これが本書の主題です。(木村彰一、同書、あとがき、p219)

‘art’(芸術)ではなくて、 ‘craft’(技術)なのだと、最近出た新版の序文で著者(=ラボック)自身もふれています。<芸術>という<高遠な>言葉をさけて、<技術>という地道な言葉をわざわざ選んだというのです。軽やかな一般論の高みに舞い上がることをさけて、小説自体という対象に密着したかったからだ、というのです。(木村彰一、同書、あとがき、p220)

<技術>についての分析は精細ですが、作家が何故、また何を目指して、彼の<技術>を選び取るのか、という点には全く触れていないのです。作家と読者との関係という問題も、この点を離れては、生きたつながりとは成り得ないのではないでしょうか。彼の先駆的な考察を動力学へと組みかえてゆくのが、今日の僕らの仕事だと思います。(木村、同書あとがき、p223)

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