民衆の壮大な仏教誤解

2017年8月13日 日曜日 小雨

朝は雨。

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加地伸行 儒教とは何か 中公新書989 1990年

 それでは、再生や長生という現世への執着に満ちていた中国人が、なぜ輪廻転生という異質の仏教を信じたのかという問題がある。結論を先に言えば、仏教をよく知っていた知識人は別として、民衆の壮大な仏教誤解があったからである。すなわち、輪が回り続けるように苦しみが<転生>して長く長く続くという点がすっぽりと抜け落ち、死んでも来生に再び<肉体を持って>生まれることができるなら良いではないかと考えたのである。・・楽しいこの世に肉体を持ってもう一度生まれることができる転生を良いものと誤解したのである。・・・(中略)・・・ その上、儒教の<再生>は、神主・木主<魂の憑りつくところ>におけるものであるから、結局は観念的とならざるをえない。生きた肉体を伴わない<再生>であるからである。しかし、仏教の<輪廻転生>を「輪廻」抜きで、・・・(中略)・・・ただ過去から現在へ、現在から未来へというレベルで<転生>を言うとき、それは<楽しい>この世に、儒教のように神主に憑りつくだけではなくて、快楽をつくせる生きた肉体を持って再生することができるというふうに誤解することとなる。しかし、この誤解は、同じく再生を説く儒教に比べてかえって魅力的であり、こういう壮大な誤解によって、民衆において仏教が大流行したのである。それが、魏晋六朝時代から隋唐時代に至る状況であった。(加地、同書、p174-175)

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・・一般民衆にとっての仏教とは<死後も楽しいこの世に再び生まれ変わることができる>ものであり、それならいいではないかと誤解された仏教であった。・・死後、<苦の世界>でなくて<楽の世界>へというこの発想が中国人民衆に広がった結果、そのつきつめた形として浄土思想が大流行となる。すなわち、死後、浄土に<往>ってそこで<生>きる、すなわち<往生>である。
 これは日本においても大流行する。こうした浄土思想、すなわち、死後に長い長い輪廻の苦しみが待っているとはしないで、阿弥陀如来の本願にすがって浄土へ行けるとするのは、中国人や日本人、楽天的な東北アジア人にぴったりであった。(同書、p176)

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補註: お盆の時期を迎えて、今から50年以上も前、田舎の祖母や叔母と過ごしたお盆の日々を思い返したりしている。お盆の3日間だけは、私たち子供が魚や虫を捕ってはいけないと固く禁じられていた。これは、一年中を通してベースにあった仏教の生類憐れみの仏教思想だけではなくて、この特別なお盆の日に、ご先祖の霊がフナやカブトムシに宿ってこの家に帰ってきているかもしれないという祖霊の<招魂再生>の思想が変形されて一般民衆の心の中にあったことの現れであったのかもしれない。子供の私は、深く疑うでもなく、また深く信じるでもなく、素直に聞き従っていたように思う。北東アジアの民衆の「壮大な仏教誤解」から生まれた俗信であったかもしれないが、私たち子供には通奏低音として心の底を流れ奏でられる日常だっただろう。
 今では私も還暦を過ぎ、父母の位牌だけでなく、祖母やその家を守ってくれた叔母の位牌をも祀る身となってしまった。今日、このお盆の日には、天候が許せば、春から育ててきてやっと咲きはじめたムギワラギクの花を摘んで、若くして異国で死んだ伯父の位牌を代表として、祖母や叔母や父母、私が祀るべき祖霊を想い、家族で語りながら、その依りつくべき位牌に花を飾ることとしたい。

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