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死をさけることのできない人間のフィナーレ

2018年1月21日 日曜日 晴れ

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中村 仁一 「治る」ことをあきらめる 「死に方上手」のすすめ (講談社+α新書) 2013年

久坂部 羊 日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか (幻冬舎新書) 2007年

星新一 ひとにぎりの未来 新潮文庫 昭和55年(もとの作品集は昭和44年に新潮社から刊行された)

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老い方・死に方を見せる役割
 老年期は、自分がこれまでの人生で価値あると思ったものを、次の世代に受け渡していく時期です。その老い方・死に方を後からくるものに見せるという、最後の役割、仕事が残されていると思います。
 死に方にもいろいろな型がないと困るわけですから、従容として死ぬ必要はないのです。泣き喚いても、のたうち回っても、それはそれでいいと思います。
 老い方も、決して立派である必要はなく、ボケでも寝たきりでも、どのような形でも、一向に構わないのです。(補註#参照)(中村仁一 上掲書、p103)

上手に子離れを
 親は子どもを育てる過程で、子どもがいなければ体験できないような人生の局面を、「怒り」や「嘆き」や「心配」により、たっぷりと味わわせてもらっているのです。子どもはそれで十分に親に恩返しをしており、そのことで、親と子どもの関係は差し引きゼロになっていると思います。
 ですから、それ以上の反対給付を子どもに望むのは、強欲といっても差し支えないと思うのです。(補註##と補註###を参照)(中村、同書、p129)

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「先生の開発なさった、あの新薬の効果は劇的でございますね。すばらしいと言うほかありません」
「ああ。天国の幻覚を見せる作用を持つ薬のことか。あれを使うと、だれも死に直面することがこわくなくなる。いや、あこがれるようになりさえする。そして、やすらかな死にぎわとなるのだ」
「死をさけることのできない人間すべてにとって、最高の救いであり、最高のおくりものといえましょう」
 だが、医者はどこかつまらなそうな表情で言う。
「わたしもあの薬を開発してよかったと思う。使用法がああだから、秘密にしなければならず、・・・以下略・・・」(星新一 フィナーレ p340 ひとにぎりの未来 新潮文庫 昭和55年)

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補註# A)「老年期は、自分がこれまでの人生で価値あると思ったものを、次の世代に受け渡していく時期」; B)「その老い方・死に方を後からくるものに見せるという、最後の役割・仕事」
 筆者・中村仁一さんのお話の骨子と思われるところである。
 A)に関しては「価値」のすりあわせが老者と次世代者のあいだでできていないことが問題となる。
 B)に関しては結局はあらゆる人が遂行してしまう。しかし、以下のことが問題となる。すなわち:
1)特殊な事例を除いて、老いそして死ぬ老者自身が、それ(=「その老い方・死に方を後からくるものに見せるという、最後の役割・仕事」)を価値として自覚できない(つまり上記A項が自覚的に遂行されない)場合が一般的である。
そしてまた、
2)(やはり、特殊な事例を除いて)先達の老い方・死に方を見つめるという役割・仕事を請け負うべきはずの「次世代者」が、その請け負いを無自覚あるいは忘却ないし無視して過ごしてしまうことが常態である。

補註者の見解としては、「次世代者」として一般に他の「人」を想定しても現実味に乏しいと思う。やはり特定の「家族」の人を想定することしか現実的な議論はできないと思う。

したがって、
補註## 中村さんのご意見としては「それ以上の反対給付を子どもに望む」のはいけない、とおっしゃることで「子ども」の負担を軽減してあげたいという優しいお気持ちはよくわかるものの、老いる(そして死ぬ)人はその「子ども(家族)」にしか、価値あるもの(そして逆に負の価値の高いもの=苦労)を受け渡すことが許されていないという現実を直視すべきであろう。

補註### それ以上の反対給付を子どもに求めること・・人類を除いて他の哺乳類のほとんどは生殖年齢を過ぎると死んでしまうので、「それ以上の反対給付」を子どもに求めることはない。しかし、人類は寿命が延びたため、生殖年齢を過ぎた後にも何十年かを生きられることになる。自分の世話を十分に行う事ができなくなった最晩年の介護は、誰かが担わなければならない。誰が担うべきか? ・・議論は根元に戻ることになる。

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