存在の耐えられない軽さ(クンデラ続き)

2018年2月5日 雪(しんしんと降り続く)

ミラン・クンデラ 存在の耐えられない軽さ 千野栄一訳 集英社 1993年(原書は1984年)

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息子が親子の間を示す表現を使ったので、トマーシュには突然、この場面では問題なのは政治犯の恩赦でなく、息子との関係なのだと確信した。(クンデラ、同書、p251)

われわれはもう、罪があると感ずることは何かということが分からなくなっています。共産主義者たちはスターリンが自分たちを間違いへと導いたと言い訳をしています。殺人者は母の愛情がなかった、そして、失望させられたと、いい逃れをします。そこへお父さんが言ったのです、言い訳なんて存在しないって。自分の魂にかけて、オイディプースより罪のない人はいません。それなのに彼は何をしたかを知ったとき、自ら自分を罰したのです。(クンデラ、同書、p253)

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私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。それだから私はどれも同じように好きだし、私を同じようにぞっとさせる。そのいずれもが、私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向こう側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。(クンデラ、同書、p257)

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・・今、同じように奇妙な幸福を味わい、あの時と同じ奇妙な悲しみを味わった。その悲しみは、われわれが最後の駅にいることを意味した。その幸福はわれわれが一緒にいることを意味した。悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。(クンデラ、同書、p362)

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・・ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。 
 そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬(=カレーニン)の頭を膝にのせているテレザを私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」(補註:創世記の冒頭参照)の道から、退きつつある。(クンデラ、同書、p333)

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・・人間の時間は輪となって巡ることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。(クンデラ、同書、p343)

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