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米三升といふ概念には重々しくてしかも蠱惑にみちたもの、心にしみるもの、頭をくらくらさせるものがあつた。

2018年2月28日 水曜日 曇り

丸谷才一 輝く日の宮 講談社文庫 2006年(2003年に単行本として発行)

 ・・中年女は部屋の隅に置いてある大きなリュックサックを引き寄せ、ウィスキーのびんを出した。ガラスのびんのなかで琥珀いろの液が悩ましく、たぷたぷと、挑発的に揺れるのを前に置き、
「いける口でせう、先生」と言つた。
・・・(中略)・・・
 ・・袋の口から米粒がすこし、白く、美しく、あえかに、みだらにこぼれて、さああたしたちを食べて、食べて、食べてと囁きながらきらめきつづけた。三升だ、と玄太郎は思った。米三升といふ概念には何か重々しくてしかも蠱惑にみちたもの、大御心(おほみこころ)、万世一系、恋闕(れんけつ)などといふ概念より遙かに心にしみるもの、頭をくらくらさせるものがあつた。(丸谷、同書、p192-193)

補註
このあたりの丸谷さんの(食べ物に関連した)叙述はなかなか素敵・秀逸である。描写力の天才たとえばバルザックの筆になっても、ここまで恋情と執着をもって食べ物(本引用の個所は、戦時の食糧難中とはいえ、ウィスキー以外はカニ缶・天ぷら油の缶・米・ハムなど単なる素材の数々である)の記載にのめり込むゆとりと才覚は持ち合わせないかもしれない。丸谷さんは、カード会社の月刊誌のグルメページなども担当されていたのであろうか?

同じ頃の描写で、太宰治の「親友交歓」のお話にもウィスキーの瓶の話しがでてきて感銘を受けた。

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