肺癌プロジェクトの現在地点

2018年4月13日 金曜日 曇り
今年の2月に、私たちの樹立した抗体が基となった抗体医薬の第1相試験のスタートが公表された。最初は、非小細胞肺癌の患者が対象である。
かなり大きなバイアルに入った私たちの抗体の姿を想像してみる。たとえば、200mgの抗体・・なんて、基礎実験に終始していた私たちには想像もつかないぐらいの巨大な量である。おそらく白い粉末・・えーっと・・水に溶かしてたとえば1mg/mlのタンパク濃度、そしてグロブリンだから〜100mmol/l程度のナトリウム濃度の水溶液になるのであろうか。(補註:対照的に、アルブミンは塩濃度が低くないと水に溶けない)。製剤になった姿をいつか見てみたいものだと思う。
私が治療の開発研究を始めて、初めてモノクローナル抗体を作ったのが1984年だから、今から34年前になる。ようやく最初の一つがここまで辿りついたのである。ずいぶんと時間がかかった。

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古代エジプト・アクエンアテンの宗教改革

古代エジプトの謎(つづき)

2015年6月10日 水曜日 雨のち曇り

アクエンアテンの宗教改革:アテン神を唯一絶対とする一神教

吉村作治 古代エジプトの謎 ツタンカーメン・クレオパトラ篇 中経の文庫 2010年

アクエンアテンという名は、彼がアテン神信仰に改宗してから自分で改名してつけた名前であり、それ以前の名はアメンヘテブ四世だった。・・・(中略)・・・アクエンアテンは、アメンヘテブ三世と正妃ティイとのあいだに生まれた息子である。(吉村、同書、p129)

ユダヤ教成立に深い係わり?
 アクエンアテンのアテン信仰は、アテン神を唯一絶対とする一神教であった。一神教の元祖のようにいわれているユダヤ教よりも成立は古く、世界最古の一神教といって間違いないだろう。
 しかし、アテン神は最初から唯一絶対神としてエジプトの大地に突如として躍り出てきたわけではない。元来はエジプトの八百万の神々の一つにすぎなかった。八百万の神々の中からアクエンアテンがアテン神を選び出し、唯一絶対神としての地位を与えたのである。(吉村、同書、p135)

(出エジプト記・第34章14節で)ヤハウェは「あなたは他の神を拝んではならない」と述べている。
 この言葉の意味するところは何なのか。ヤハウェ自身が、自分の他にも神々が存在するのを認めているからに他ならない。それを前提として、ヤハウェはモーゼに対し、「あなたたちの神として私を選びなさい。私以外の神を信じてはいけない」と命令しているのである。
 ユダヤ人の選民思想といわれるものについて、私たちはよく誤解して「ユダヤ人とはヤハウェによって選ばれた民である」というふうに解釈しがちだが、そうではなく、逆に「ユダヤ人がヤハウェを選んだ」ということが、この部分を読むとわかる。つまりユダヤ人とは、ヤハウェによって選ばれた民というよりも、むしろヤハウェを選んだ民というべきなのだ。
 ・・・(中略)・・・
 それでは、人々が神を選ぶという、このような現書記のユダヤ教における選民思想は、いったいどこから生まれてきたものなのだろうか。その源となったのが、このアクエンアテンの宗教改革ではなかったかと思われる。
 世界史では、モーゼの出エジプトが実際に行われたのは、おそらく紀元前1230年ごろだろうというのが、ほぼ定説とされている。第十九王朝の時代であり、アクエンアテンの宗教改革から約百三十年後年後という計算になる。
 こういった点から考えて、私はユダヤ教の成立の背景を、次のように推測している。
 すなわち、最終的にアクエンアテンの宗教改革は失敗し、次のツタンカーメンの時代にアテン信仰は捨て去られ、さらに第十八王朝最後の王であるホルエムヘブによって、猛烈な勢いでアテン信者狩りが行われることとなるのだが、その際に、生き残ったアテン信者たちは必死で逃げていき、ナイル川河口のデルタ地帯にまで落ちのびていった。そして、そこでユダヤ人の祖先であるヘブルの民と合流し、文化的な交流が行われる。こうしてモーゼの出エジプトに至るまでの百年ほどのあいだに、アテン信仰が形を変え、熟成し、やがてヤハウェという絶対神の名のもとに教義が統合整理され、新たな一神教である原初期のユダヤ教の萌芽が形成されていくこととなった。
 その過程の事情について、確定的なことは何もいえないが、ともあれアクエンアテンの宗教改革が、何らかの形でユダヤ教の成立に対して影響を与えたことは、間違いないといっていいだろう。(吉村、同書、p135-137)

それにしても、世界中が多神教であったこの時代に、神は一つという思想をはっきりと打ち出したアクエンアテンは、まぎれもなく天才的な閃きをもった人物であったに違いない。(同書、p146)

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脚注: 新王国時代(前1565ー前1070年ごろ)第18王朝から20王朝まで。アクエンアテンは第18王朝のファラオ。

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私は真実を知りたい

 

2012年9月5日 水曜日。

 

藤永さんの今日(注:2012年9月5日)のブログから。去年のリビヤに関するコメントの引用。 <以下引用> 「しかし、今こうして彼らの発言とマスメディアの報道を蒐集保存しておけば、 3年も経たない内に、彼らが正しかったか、それとも、私の悲観的見方が正しかったか、がはっきり分かると思うからです。「それが分かって何になる」という声が聞こえてくるような気がします。その通りです。あと3年、生きているかどうかも全くあやしい私にとっては、尚更のことと言えましょう。けれども、やはり、私は真実を知りたい。生半可な絶望の中に没するよりも、絶望を確認してから死ぬほうが、日本人らしい選択だとは言えませんか?」 <引用終わり>

予定ではデッドリフトの日なのだが、日曜日のスクワットの脚の疲労が抜けず、昨日の夜の頭痛のこともあり、トレーニングの用意を持ってラボをでたものの、バス停に着く頃には今日はデッドを延期して早めにうちに帰って休むことにしてしまった。

会議が延々と3時間も続いていたことも疲労の原因かもしれない。ただし、教授総会と研究科委員会との合間の数分を利用して、持参したホットケーキ3切れとにんじんジュースを廊下の端でぱっぱっと食して、続く長時間の会議に備えることができたので、比較的疲労なく夜を迎えられてはいたのだが。

食料を少しでも用意して、会議の間に食べるようにするとからだが保てそうだ。次回も用意してバッグに詰めて会議に臨むことにしたい。

久しぶりにバーミヤンで夕食。鶏肉とカシューナッツ炒め、エビとホタテと夏野菜のこしょう炒め、それにライス。

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以上、2012年9月5日付けの日記より  2年前のこの頃は単身赴任で八王子に住んでおりました。

 

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夜と霧のパラドックス

 

2005年8月12日

以前、2005年3月20日付けで「南氷洋の「洋」」と題して、ガラード「世界最悪の旅」を紹介しました。わたしの友人、Aさんが、早速この本を注文購入して読んでくださっている、とのこと。わたし自身、この本からの長い引用をときどき読み返してみています。その後、植村直己の「極北に駆ける」山と渓谷社、2000年(初版は1974年、文藝春秋)、本多勝一の「極限の民族 第一部 カナダ・エスキモー」朝日新聞社、1967年、さらに、フリッチョフ・ナンセンの「極北 フラム号北極漂流記」中公文庫、2002年(原書は1897年刊)など、読み進んでいます。いつか、これらの本についても紹介したいと思っています。

さて、今回は、別ジャンルの二冊の本を紹介します。ともに、非常に重い、深い内容なので、ここでは気軽なタッチの私のコメントを置いたりするのは、差し控え、ただ単純に引用し紹介させていただきたいと思います。私も、折に触れて、これらの本を読み、考え、そして生きていきたいと思います。

以下は、「フランクル著作集1 夜と霧 123ページ みすず書房 1961年。」からの引用です。

「私は彼女の励まし勇気づける眼差しをみる—そしてたとえそこにいなくても—彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。」

「夜と霧」では、しばしば逆説的表現(パラドックス)が現れます。以下にいくつかひろってみます。

「人間がそれについて悟性を失う事物というものは存する・・・・・そうでなかったならば、人は失うべき悟性を有しないのだ」とかつて述べたのはヘッベルであったと思う。異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。(フランクル著作集1 夜と霧 99ページ みすず書房 1961年。)

元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、(略)、収容所生活のかくも困難な外的状況を、苦痛ではあるにせよ、彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には、体験しなかった。なぜならば、彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。(同書、121ページ。)

収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言ったとき、私の仲間はいつも賛成してくれた。(同書、173ページ)

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次に、原爆に関して、家永三郎「戦争責任」 岩波書店、1985年、より以下に引用します。

<バーンスタインは、「われわれは今では、原爆が遺伝的傷害をもたらし、この悪質な遺産をのちの世代に伝えることを知っていますが、1945年にはだれもそのことを知らなかったし、政策決定者層も科学者もそのことを予想せず、警告しませんでした」と言っているけれど、重大な結果をもたらす行為の実行を決断するものは、それによって生じる結果について責任を負わねばならない。もし1945(昭和20)年当時にそれが予見できなかったとしても、あれだけの破壊力を認識できたものにとって、そこまで予見できなかったとすれば、予見できなかったことについて少なくとも重大な過失がある、とされねばならないのではあるまいか(同書、324ページ)。>

戦争責任に関して、家永さんの同書から、以下にいくつか取り上げてみます。

<戦争責任の追及から積極的生産的な効果を導くためにはさらに慎重かつ複眼的な配慮が望ましいと考える。(同書、384ページ)>

<まず自分自身の、たとい戦争に協力しなかったにせよ、不作為の消極的戦争責任への反省から出発することが第一の急務であったとも思われるのである。(中略)戦争責任の問題を真剣にとり上げようとするときに何よりも先に自己の戦争責任の問題にたじろがずに直面することは、そのような没主体的思想彷徨に堕するのを防止するためにも、避けてはならない課題であったのである。(同書、383ページ)>

<日本国憲法が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争の放棄と戦力の不保持とを決意したのは、かような「民」のレベルでの「信頼」関係の累積・発展に期待をかける意思の表明であって、「諸国家の公正と信義」を盲信する意味と読んではならないと確信する。地の塩ともいうべき良心の持ち主は、国境と人種とを越えて世界のいずこにも見いだし得るという事実を知ることは、あまりにも非人間的な状況にみたされた世界であるだけに、私たちにとりいっそう大きな救いとなるのである。(同書345ページ)>

「戦争を知らない世代」にも責任はあるか: <それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである(同書309ページ)。> <国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きているかぎり、国家・民族が集団として担う責任を分担する義務を免れないのは当然ではないか。しかも、個人の独立が強いからこそ、その責任を個人の自発的意志により進んで背負うのである(同書311ページ)。>

家永さんの本から最後の部分を以下に引用します(家永三郎「戦争責任」 401-402ページ、岩波書店、1985年、より引用。)

「ただし、人間の力は有限であるから、どれほど誠実かつ全力を傾けても、必ず目的を達成できるとは限らない。不幸にして核戦争を阻止できず、もはやその「惨禍」を惹き起した責任を問うものも問われるものも地上に存在しない状態が現出しないという保障はない。それにもかかわらず、人が人であるかぎり、相対有限の中でなすべきことをなすことによって相対有限の世界にありながら絶対無限の世界に超出し、時間を超えた永遠の生命を獲得することができるのである。それは形式論理では解くことのできないパラドックスではあるけれど、人の人たるゆえんは、そのようなパラドックスの内にのみ生きるほかないところにある、というのが、ありのままに人の生き方を直視したときに明らかに見えてくる事実(Sache)である。戦争責任は、単なる相対有限の人と人との間で生ずる責任にとどまらず、相対有限の人が絶対無限なるもの(ここでは有神論に立つ「神」に限定して考える必要はない)に対する責任でもあるのである。最悪の事態を想定しても、戦争責任を償うための努力が無に終ることはないとの確信に立ち、そして最悪の事態を回避する選択肢が現に存在する今日、その選択肢を選ぶことを誤らないように、もっとも理性的かつ良心的に努力することが、戦争責任を償おうとするもののとるべき唯一の道として私たちの前に開かれているのである。」

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夜と霧のパラドックス  以上、2005年8月12日 付けのWEBページより再掲

 

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田中正造の問題

 

2010年7月6日

 

宇都宮に出かける所用があり、空いた時間を利用して佐野を訪れた。

宇都宮から東武線で栃木へ。約40分。栃木から両毛線に乗り換え。といっても1時間にせいぜい1本ぐらいのローカル線のため、待ち時間が一時間近くもできたため、蔵の街栃木を散歩。駅前通には学習塾が並び、教育熱心な地域と感じる。

栃木から両毛線。宇都宮から栃木・佐野・足利経由で前橋・高崎に向かう両毛線。この鉄道に乗ったのはこれが初めて。前橋まで行って朔太郎ゆかりの利根川の畔も散策したかったが、今日は佐野と決めている。栃木から数駅で佐野へ到着。駅の北側が城山公園、藤原秀郷ゆかりの佐野城趾。

城趾の遺跡を巡った後、駅の南側に回って駅前通沿いでラーメン屋さんに入り、チャーシュー麺でお昼とする。チャーシューという言葉を聞くと、金子光晴が友達をチャーシューになぞらえた晩年の詩がひらめいて思い出し笑いしそうになる。当分この習慣が続きそうだ。

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日光例幣使街道(旧50号線)へ曲がって、秋山川を渡ってしばらくいってから左手に曲がると佐野市郷土博物館。

正面の一室が田中正造関係資料の常設展示。表装され巻物になっている「謹奏 田中正造」。正造の加筆訂正の墨の上に捺印の朱の色彩。幸徳秋水が「臣ガ狂愚」としたものを、「臣ガ至愚」と訂正捺印、そのほかにも多くの訂正加筆がある。

遺品の石3個も、有名なものであったが、今回初めて実物を見ることができた。その隣には菅笠なども展示されていて、正造の姿が偲ばれる。

田中正造関係地図の脇に、大正2年8月、病床にあった時に、「(見舞いの人々は)田中正造の病気に同情しても、田中正造の問題に同情している人はいない、帰ってもらえ」、と看護の女性に言った、と書かれていた。

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郷土博物館を出て、田中正造生家に向かった。7月の梅雨の合間。曇り空とはいえ、陽射しも明るく、30度を超える猛暑である。札幌暮らしに慣れた私にはこの炎天下を歩くのは厳しく、すぐにぐうの音をあげてしまいそうである。しかも当日は金曜日で、正造翁の生家は休館日(週に3,4日しか開館されない)。たどり着けても、中の資料などを見せてもらうことはできない。

270号線を北上し、菊川町の交差点までも歩けばかなり遠かった。日頃、白石サイクリングロードで鍛えているにしては、すぐに足の裏が痛くなって歩きが苦痛になってきた。

 

 

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237号へ左折。しばらくゆくと右手に榎木の大木と看板を見つけたので、道を渡って行ってみた。堀米地蔵堂。明治2年、正造29歳の時にこの地で手習い塾をしていたとのこと。明治39年、晩年の正造が木下尚江らを案内した当時の写真が看板になって掲げられていた。若き正造が手習いの師匠をしていた時分には「子供の手ほどの」小さな榎の木が、40年近くを経て大木に育っていた。計算すると、今ではさらにそれから104年、上の写真のように立派で元気なまま立っている。虫が食って中が洞になったりはしていないので、まだまだこれから。これからも地域の人々に守られて、そして地域を見守ってゆく榎木。

梅雨の時期とあって道沿いの溝の水は増水している。水は意外ときれいだ。あっと驚いたことには、足元を流れる溝に大きな真鯉が泳いできた。5,60センチはあろうか。増水で池から泳ぎ出てきたものかもしれない。私の田舎の近所の小川でも、梅雨の大水の後はよく、普通には見たこともないような大物が泳いでいたことを思い出す。佐野の237号線沿いの溝はせいぜい幅1メートル程度の小さな流れであるが、よく見ると10cmばかりの緋鯉や、同じぐらいの大きさのフナやコイのような魚が幾匹も元気に泳いでおり、水もきれいで、なかなか豊かな感じである。

足も痛くなり、のども渇いて、ほぼへとへとになりながら、正造翁の旧宅に到着。今度のコースは、余程の健脚か余程の思い入れのある方以外には徒歩では奨められない散歩道と言える。バスなどの公共交通機関も無いわけではないが、数時間に一本なので、時刻表に照らしてうまく往くことができても復路は歩かねばならないだろう。トラックは多く行き交うが、何時間も歩いてもこの街道筋ではバスやタクシーには行き会うことがなかった。私が佐野駅の案内所でもらってきた観光地図には距離が書かれてない。概念的な略図なので、意外と歩けば近いかもしれないという錯覚に陥る場合もあり、このように歩いてみようという無謀も(観光客によっては)やってしまうのかもしれない。ただし、当日は金曜日ということもあり、観光客と言えるような人には一度も一人にも会うことはなかった。

小中町の旧宅。

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ご覧のように小さな民家で、お隣・裏隣のお家も近接している。タクシーが停まる駐車場や観光バスを止めるスペースもない。よって、今回の私のように徒歩でやってくることが推奨され得ないとすると、自転車で訪ねるのがベストと思われる。
生家の道をはさんで向かい側には分骨されたお墓があり、今日も新しい百合の花が生けられていた。97回忌の卒塔婆、その隣にはカツ夫人の74回忌のものが立てかけられてあった。

翁のお墓の隣にあったブランコにすわってゆっくり考える。さて、私は、田中正造のお墓に詣でることはあっても、田中正造の問題に立ち向かうことはない、と正造翁から叱られないだろうか。

私の場合は、私の本業とする医学や生命科学、学問や教育の中でも、多くの人々を苦しめている難題が存在する。それらの問題のどれか本当に大切な問題を見つけ、それに本当に真摯に立ち向かい闘い続けることが、正造翁の遺志に添うことだと思う。私が、がんの治療法の研究を始めて、今年が30年目に当たる。何とか結果が出せるよう、あきらめないで、さらに少しだけでも続けてみたい。

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佐野の郷土博物館で見せてもらった資料によると、渡良瀬川の大洪水の折にも、ここ小中町までは洪水が押し寄せなかったという。洪水が広がったのはここから南側の地域である。次回、もし機会があったら、渡良瀬川流域、谷中方面もできるだけ広範に歩いてみたいと思う。また、足尾の方も訪ねてみたい。健脚とも言えないので、やはり自転車の旅を計画すればよいのだろうか。

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正造翁の旧家を少し先に進むと、増水した濁流の旗川に出た。今回の歩きはここまでということにして引き返す。

途中、人丸神社にもお参り。池の睡蓮が美しかった。これからは諸国の柿ノ本人麿のゆかりの地にも是非足を伸ばしてゆきたいものだ。(去年の7月は太宰府辺りをたっぷり歩くことができた)

帰りは菊川町交差点で237号を直進し、佐野の街の北側を歩いて佐野駅の南口へ。佐野の歩きが5時間にも及び、強行軍であった。(弱音を吐いては、正造翁に叱られそうで、頑張らねば、と思うのだが。) 栃木に着いた頃から雨が降り出し、東武宇都宮線では、雷と大夕立。宇都宮駅前で名物の餃子のお店に入って雨宿り。出てきた頃にはほぼ雨上がり。少し運が良かった。

旅から帰って、着ていたノースリーブの下着を見てみれば、汗が乾いて白い塩の線となり、それが何本も等高線の地図を描いていて、すさまじい発汗量であったことがわかって面白かった。

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以上、2010年7月6日付けWEBページより再掲

 

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