二種法身:法性法身 vs 方便法身

2018年2月26日 月曜日 晴れ

阿満利麿 法然の衝撃 日本仏教のラディカル 人文書院 1989年

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 ・・このような仏教の真理の二重性、つまり人間の宗教的要求に応じることができる形象をもっているということと、人間の認識の及ばない超越性というあり方は、親鸞の発明ではなく、大乗仏教の典型的な思考方法である。この論理に逸早く注目したのは、中国の曇鸞であったことはよく知られている。曇鸞は、この真理の二重性を、「二種法身」と呼んだ。「法性法身」と「方便法身」である。後者は、前者に根拠をもち、前者は、後者となってはじめて人間にすがたをあらわすことができるのだ。(阿満、同書、p157)

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死者の鎮魂慰霊・追福に役立つ仏教というイメージ

2018年2月22日 木曜日 晴れ

阿満利麿 法然の衝撃 日本仏教のラディカル 人文書院 1989年

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「日本書紀」では、戒律のことを「戒(い)む」と読んでいる。「いむ」は、「斎」と同じであろう。・・・(中略)・・・神に仕えるために身心を清める行為と、仏教の戒律が、ながく同じとうけとめられていた・・・(中略)・・・「いみ」の尊重はまた、苦行主義の源泉ともなっている(阿満、同書、p36, 37)

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 ・・死者の鎮魂慰霊、追福に役立つ仏教というイメージは、日本伝来以前に十分に作られていた。・・・(中略)・・・
 ただ、死者祭祀と一口にいっても、仏教受容との関係でいえば、二つの側面に注目しなければならないであろう。一つは、祖先祭祀であり、他は、横死者などこの世に祟りをなす、あらぶる霊魂に対する鎮魂慰霊である。(阿満、同書、p54)

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亡者の追善には何事か勝利多き?

2018年2月23日 金曜日 晴れ

改訂 徒然草 付き・現代語訳 今泉忠義訳注 角川文庫 昭和27年(私の持っているのは改訂95版・平成21年)

亡者の追善には何事か勝利多き?

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徒然草 第二二二段
・・亡者の追善には、何事か勝利おほき?
・・称名を追福に修して巨益(こやく)あるべしと説ける経文を見及ばねば・・本経のたしかなるにつきて、この真言陀羅尼をば申しつるなり。(同書、p170)

補註 乗願房宗源、法然の弟子。

死者の追善に称名念仏が役立つか否か? また、その根拠は?

補註 2018年2月26日 月曜日 曇り
阿満利麿 法然の衝撃 日本仏教のラディカル 人文書院 1989年
・・専修念仏における死者救済は、あくまでも自身が仏となり、その仏力をもってなされることがらなのである。そのような論理が可能になる根拠は、「世々生々の父母兄弟」という輪廻説にある。(阿満、同書、p215)

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鎮魂慰霊の仏教 vs 自己救済の仏教

2018年2月22日 木曜日 晴れ

阿満利麿 法然の衝撃 日本仏教のラディカル 人文書院 1989年

鎮魂慰霊の仏教 vs 自己救済の仏教

 ・・柳田国男は、日本に定着した仏教には、二種類があることを強調していた。一つは、死者の鎮魂慰霊に役立つ仏教であり、他は、生きている自己自身の安心のための仏教である。後者は「自家用の念仏」とよばれ、具体的には、法然に始まる専修念仏をさしていた。柳田自身は、専修念仏には共同体の信仰を破る点があるとして、強く反発するところがあり、共同体の維持の上で、つまりは祖先崇拝に役立つ鎮魂慰霊の仏教を高く評価している。・・・(中略)・・・
 ただここで強調しておきたいことは、鎮魂慰霊の仏教、つまり葬式仏教は、日本の仏教史では主流ではあったが(今もそして今後も主流であろう)、それではどうしても救われない「個人の問題」が残るという事実なのである。
 そして、・・「個人の問題」は、究極的には、死者祭祀という儀礼、あるいは死者霊を浄化する威力というものでは、解決することができない。宗教は、決して死者祭祀や祖先崇拝に終わるものではない、それらは、宗教の重要な一面ではあるが、あくまでも一面なのである。むしろ、死者祭祀に代わる救済原理を提出することができる点にこそ、宗教の真骨頂がある。仏教もまた、その意味で宗教なのである。日本の歴史では、このような救済原理はさまざまに提唱されたが、もっともひろく民衆に開かれた原理は、法然を待ってはじめて出現したのであった。(阿満、同書、p26-27)

 ・・宮古島の仏教化の始まりに触れることで、私は、そもそも日本の仏教自身が、その出発点においてどのような問題をはらんでいたかを、はるかに時間を隔てているにもかかわらず、なにか実感できたように思われたのである。 さて、ここから私の思いは、二つの方向へのびる。一つは、一挙に古代へさかのぼり、仏教伝来当時、仏教がどのように受容されたかを知ること。二つは、仏教儀礼とユタの両者を必要とする問題から、神と仏の共存という、日本宗教史を貫く信仰形態をあらためてふりかえってみること、である。いずれも、私の心づもりとしては、法然の革命性を明確にとらえるための前提なのである。(阿満、同書、p27-28)

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念仏が信心(まことのこころ)を生じる

2018年2月20日 火曜日 雪

阿満利麿 親鸞 ちくま新書886 2011年

念仏が信心(まことのこころ)を生じる

・・余人ではなく、この自分だけがどうしてこのような不幸な目に遭わねばならないのか。その理由を知って心底「納得」したかったにちがいない。くり返すが、「心底」という点が重要なのだ。一時の気休めでは「納得」することはむつかしい。(阿満、同書はじめに、p10)

・・私たちが自己の死を恐れるのは、自分が無意味な世界へ解消されてしまうからであろう。・・・(中略)・・・
・・死をふくめて私たちのさまざまな限界状態に対して、「意味づけ」をする、しかも「究極的な意味づけ」をするのが「宗教」の重要な役割なのである。「心底」、納得できる「意味づけ」、それが「宗教」なのである。(阿満、同書はじめに、p12, p14)

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・・ひらたくいえば、法然はひたすら念仏を説いたが、親鸞は念仏すればなぜ仏になることができるのか、その根拠を明らかにしようと努めた。それが・・「信心」である。念仏が「信心」(親鸞は「まことのこころ」とよむ)を生じるがゆえに仏になるのだ、と。(阿満、同書、p28)

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六道輪廻
ウィキペディアによると・・・
六道(ろくどう、りくどう)とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと[1]。六趣、六界ともいう[1]。六道には下記の6つがある[1]。
* 天道(てんどう、天上道、天界道とも)
* 人間道(にんげんどう)
* 修羅道(しゅらどう、阿修羅道とも)
* 畜生道(ちくしょうどう)
* 餓鬼道(がきどう)
* 地獄道(じごくどう)
このうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という[1][2]。ただし修羅道を悪趣に含めて四悪趣(四悪道、四趣)とする場合もある[1][3]。六道から修羅道を除いて五道(五悪趣、五趣)とすることもある[1][4]。

このうち、地獄から畜生までを三悪趣(三悪道、あるいは三悪、三途)と呼称し、これに対し修羅から天上までを三善趣と呼称する場合がある。また地獄から修羅までを四悪趣と称することもある。
また六道から修羅を除いて五趣(五道)と称すこともある。初期仏教では、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣とし、修羅はなかった。つまり五趣の方が六道より古い概念とされる。これは当初、修羅(阿修羅)が、天部に含まれていたもので、大乗仏教になってから天部から修羅が派生して六道となった。したがって、これらを一括して五趣六道という。

輪廻とは、サンスクリット語のサンサーラ(संसार saṃsāra)に由来するヴェーダ、仏典などに見られる用語で、人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、また、そう考える思想のこと。漢字の輪廻は生命が無限に転生を繰り返すさまを、輪を描いて元に戻る車輪の軌跡に喩えたことから来ている。なお、リンエではなく、リンネと読むのは国語学上の連声(れんじょう)という現象である(リン+エ=リンネ)。
インド圏以外における総論については「転生」を参照
インド哲学において生物らは、死して後、生前の行為つまりカルマ(梵: karman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされる。インドの思想では、限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦と見、二度と再生を繰り返すことのない解脱を最高の理想とする。

六道輪廻をあらわしたチベット仏教の仏画。恐ろしい形相をした「死」が輪廻世界を支配している

ウィキペディアによると・・・

ヒンドゥー教における輪廻

https://ja.wikipedia.org/wiki/輪廻

ヒンドゥー教の前身であるバラモン教において、はじめて断片的な輪廻思想があらわれたのは、バラモン教最終期のブラーフマナ文献[注 1]ないし最初期のウパニシャッド文献[注 2]においてである。ここでは、「輪廻」という語は用いられず、「五火」と「二道」の説として現れる。『チャーンドーギヤ』(5-3-10)と『ブリハッドアーラニヤカ』(6-2)の両ウパニシャッドに記される、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く「五火二道説」が著名である。
五火説とは、五つの祭火になぞらえ、死者は月にいったんとどまり、雨となって地に戻り、植物に吸収されて穀類となり、それを食べた男の精子となって、女との性的な交わりによって胎内に注ぎ込まれて胎児となり、そして再び誕生するという考え方である。二道説とは、再生のある道(祖霊たちの道)と再生のない道(神々の道)の2つを指し、再生のある道(輪廻)とはすなわち五火説の内容を示している[1]。
これが、バラモン教(後のヒンドゥー教)における輪廻思想の萌芽である。そして様々な思想家や、他宗教であるジャイナ教、仏教などの輪廻観の影響も受けつつ、後世になってヒンドゥー教の輪廻説が集大成された。すなわち、輪廻教義の根幹に、信心と業(カルマ)を置き、これらによって次の輪廻(来世)の宿命が定まるとする。具体的には、カースト(ヴァルナ)の位階が定まるなどである。
行為が行われた後、なんらかの結果(梵: phala)がもたらされる。この結果は、行為の終了時に直ちにもたらされる事柄のみでなく、次の行為とその結果としてもまた現れる。行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)は輪廻の原因とされる。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しない限り、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定される。 天国での永遠の恩寵や地獄での永劫の懲罰といった、この世以外の来世は輪廻のサイクルに不均衡が生じるため、ありえないことと考えられた[2]。
これが、業(行為)に基づく因果応報の法則(善因楽果・悪因苦果・自業自得)であり、輪廻の思想と結びついて高度に理論化されてインド人の死生観・世界観を形成してきたのである。

仏教における輪廻  ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/輪廻

仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とする。仏教では輪廻において主体となるべき我、永遠不変の魂は想定しない(無我)[3]。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっている。

無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場である。輪廻に主体(我、アートマン)を想定した場合、それは結局、常住論(永久に輪廻を脱することができない)か断滅論(輪廻せずに死後、存在が停止する)に陥る。なぜなら主体(我)が存在するなら、それは恒常か無常のどちらかである。恒常であるなら「我」が消滅することはありえず、永久に輪廻を続けることになり、無常であるなら、「我」がいずれ滅びてなくなるので輪廻は成立しない。このため主体を否定する無我の立場によってしか、輪廻を合理的に説明することはできない[3]。
仏教における輪廻とは、単なる物質には存在しない、認識という働きの移転である。心とは認識のエネルギーの連続に、仮に名付けたものであり[4]、自我とはそこから生じる錯覚にすぎないため[4]、輪廻における、単立常住の主体(霊魂)は否定される。輪廻のプロセスは、生命の死後に認識のエネルギーが消滅したあと、別の場所において新たに類似のエネルギーが生まれる、というものである。[5]このことは科学のエネルギー保存の法則にたとえて説明される場合がある。[6]この消滅したエネルギーと、生まれたエネルギーは別物であるが、流れとしては一貫しているので[注 3]、意識が断絶することはない。[注 4]また、このような一つの心が消滅するとその直後に、前の心によく似た新たな心が生み出されるというプロセスは、生命の生存中にも起こっている。[5]それゆえ、仏教における輪廻とは、心がどのように機能するかを説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。

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