親とは何か、子とは何か、家族とは何か、結びあっているものとは何か。

加地伸行 沈黙の宗教−−−儒教 ちくまライブラリー 1994年

2015年10月2日 金曜日 晴れときどき雨

仏壇を前にして、最上段の本尊に対して花を捧げて祈り、中段の位牌に対しては、灯明をもって祖先を幽暗のところからこの世に導き、線香をあげて位牌に依りつかせ、回向をする。すなわち、本尊と花と、位牌と灯明・線香と、という組み合わせである。われわれの日本仏教は、こういう形で、輪廻転生のインド仏教と招魂再生の儒教とを、仏壇においてみごとに併存させているのである。われわれは仏壇に向かって、毎朝、仏に祈り、そして祖先と出会っている。毎朝−−−ここには、大きな意味がある。それは、家族の連帯を知らしめる行動だからである。
 私は、日本の家庭において仏壇の持つ意味は重要であると思っている。輪廻転生と招魂再生との矛盾を問う必要はない。われわれは、論理的には整合していなくても、すでに心理的に感情的に整合して両者に接しているのであるから、このままでよいのである。ただし、輪廻転生のインド仏教と招魂再生の儒教との併立、併存であることは、知的に理解しておくべきである。それはそれとして、というよりも併存を現実として認めて、そのつぎが大切である。
 「そのつぎ」とは、仏壇の持つ意味である。もし、家庭がただ単なる個人の集まりであったとするならば、それはもう家庭でもなんでもない。家をホテルとして利用しているだけのバラバラの家族にすぎない。・・・(中略)・・・浅薄な個人主義・自由主義の名の下にバラバラとなった家庭に未来はない。
 仏壇の前に座って、静かにお経をあげてみよ。仮に般若心経一巻を読じゅしてみよ。子は親の後ろに座り、親の読じゅを聞く。子は親の背中になにも感じないであろうか。親子はなにも語らずともよい。二人でお経をあげる、それでよいのだ。
 語るならば、親は子に語るがよい、輪廻転生を、招魂再生を。親とは何か、子とは何か、家族とは何か、結びあっているものとは何か。そういう<家を語る>場において、日本には仏壇がある。仏壇がその家の精神的中枢、精神的靱帯となるであろう。個人宗教に立つ欧米には、こういうものはない。
 日本仏教の最後の砦は、家庭の仏壇に在る。寺院がなんであれ、宗派がなんであれ、家の仏壇に比べれば、そんなものは大して重要でない。日本の家庭を支えうる最大の方法として仏壇がある。それを失ってしまっては、なんの寺院であり、なんの宗派であろうか。(加地、同書、p81−82より引用)

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