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孔子は札つきの革命者とされた:十四年間の亡命の旅(孔子55-69歳)

2015年12月21日 月曜日 曇りのち雨

「白川静 孔子伝 中公文庫 1991年 オリジナルは1972年の中公叢書」

定公十二年(前四九八)、孔子五十五歳(斉から帰国してまだ三年たったばかり) (白川、同書、p38)

・・・これらの女楽説・燔肉説こそ、おそらくことの真相を覆おうとする策謀であろう。自分の意思で亡命するのでなく、国外追放なのである。・・・この時代にあっても、正式に居留権が認められなければ、盗(とう)とよばれる身分である。何らかの重大な、政治的理由がないはずはない。・・・(中略)・・・子路の政策が、実は三家弱体化の政策であり、孔子がその運命を賭した計画であったことが、孔子のこのことばから察せられよう。・・・このおそるべき陰謀者を、三家が許しておくはずはない。孔子はおそらく、「冠をぬぐ」暇もなく、退去を求められたであろう。三家の立場からいえば、陽虎が武力で行ったことを、孔子は策謀を以て成そうとしたにすぎないのである。しかし孔子の考えでは、ひたすらに「東周を為す」ことが目的であった。聖人の道を行うのに、僭主勢力の排除を策するのは、正当にしてかつ必要なことである。しかし世間はそうはいわない。「孔子再び魯に逐はる(荘子・山木)」ーーー孔子は札つきの革命者とされた。亡命の十四年間、孔子をめぐる問題は、ほとんどそこから出ているといってよい。(白川、同書、p41-43)

こうして十四年にわたる亡命生活がはじまる。ときに孔子はすでに五十六歳、子路・・・四十七歳、顔淵以下はまだ二十歳をすこし出たばかりの青年たちであった。この亡命生活は、かれらの間に強い運命共同体的な意識をうえつけ、同時に運命の問題、天の問題、人間性の問題、時政の問題などについて、思索を深める機会をも与えたであろう。

孔子の経過したところは、衛ーー宋ーー陳・蔡ーー葉ーー衛ーー魯となる。亡命ののち、衛から一度南行しただけである。「荘子」に「夫子再び魯に逐はれ、*を衛に削られ、樹を宋に伐られ、商周(宋)に窮し、陳・蔡に囲まる。」というのがほぼ的確で、「史記」の数千語にまさる。(白川、同書、p48)

哀公十一年(前四八四)春、・・・季氏との和解が成り、孔子は魯に迎えられる。その秋、孔子は魯に帰ってきた。亡命以来、実に十四年ぶりである。孔子は六十九歳であった。・・・(中略)・・・思想家として円熟した孔子は、七十四歳で没するまでの数年間を、弟子たちに囲まれて、意義深く、幸福感にみちて送ったであろう。(白川、同書、p54)

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