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天武と五行思想

2016年2月17日 水曜日 曇り

小林惠子 白虎と青龍:中大兄と大海人 攻防の世紀 文藝春秋 1993年 

「書紀」によって計算すると両者の年齢が、他の史料より一歳年少になるということは、「書紀」がどこかの二年間を一年としてダブらせ、抹消した一年間があるのではないかという疑いがでてくる。・・天智の生まれた推古三四年(六二六)から舒明十三年(六四一)までのどこかで「書紀」は一年間を消していることになる。(小林、同書、p24)

(推古の喪礼が)一方で九月に始まったとあり、一方では九月に終わったとある。「書紀」によると、推古三六年九月と舒明即位前紀年の九月が明らかにダブっており、・・(小林、同書、p25)

天武と五行思想
天武は本来、木徳
天智は金徳
金徳の次の大友朝は水徳のはず。
そして水徳の次が木徳だから、順番からして天武は木徳のはず。
 壬申の乱の時、近江朝が合言葉を「金」にしているのは、天智が金徳の人だったからだが、もう一つの理由は「金は木に剋(か)つ」という五行思想による。それを予想した天武は金に勝つ火徳の色の赤を旗にしたのである。(小林、同書、p39より抄) 漢朝は火徳だったので高祖(劉邦)は赤旗を用い、高祖に擬する天武も壬申の乱の時、赤旗を用いた。(小林、同書、p48)

原著者注:
森羅万象悉く、木・火・土・金・水の五つの成分から成立するという五行思想
陰陽思想が五行思想と結びつき、陰陽五行思想となった。
各々の五行には、色・方向・季節・動物・数字・星などが、それぞれ決められて配当されている。
木・火・土・金・水の順番を相生(そうしょう)といって「木が火を生む」というように表現する。
逆を相剋(そうこく)という。(小林、同書、p40)

原著者注:
五常というのは、仁義礼智信のことである。五常の行いは窮まりなく、いつも欠いてはならないので、「常」という。また、五徳ともいうのは、これをいつも実践すればその徳を備えることができるので、五徳という。五常(=五徳)はそれぞれ木=仁、火=礼、土=智、金=義、水=信に配当される。(小林、同書、p46)

・・・これなども、天武本人に雷雨を制禦する龍神という認識があったことを示す記述だし、後世の付加ならば、後世の人々は、天武が龍神の資格を持っていたと考えていたことがわかる。その他、天武が龍をトーテムとしていたという証拠の数々はあるが、ここでは、天武は本来、木徳の人だったという認識を持っていただければよい。(小林、同書、p42)

大海人が、初めて「書紀」に登場するのは、白雉(はくち)四年(六五三)の数え年、三一歳のときである。天武の第一皇子である大津皇子は六六三年生だから、大海人の四一歳の時の子ということになる。(小林、同書、p42)

このように、露骨に人名を明らかにせず、「知る人ぞ知る」という東洋人独特の表現が、当時は無用な騒動をおこさないという意味で、効果があったのだろうが、結局、史実を闇に葬る作用もしたのである。(小林、同書、p58)

「書紀」では蓋蘇文の死を六六四年(天智三)一〇月におき、子供たちに・・と遺言したとある。 本国の史書にもみられない蓋蘇文の遺言を何故、「書紀」は記しているのだろうか。このことは、蓋蘇文がいかに倭国と密接な関係にあったかを証明していよう。 ようやく、蓋蘇文=天武という私見を少し納得して頂けたかと思う。(小林、同書、p59)

私見(「陰謀 大化改新」では、舒明朝の実体は山背朝時代であり、山背の後ろ盾となっていた百済武王が舒明朝として「書紀」に投影されていると考えた。 百済武王は六四一年に死んで、したがって舒明朝も終わる。武王の死後、百済では王位継承をめぐって争いが起き、武王の息子の翹岐(ぎょうぎ)が母親とともに倭国に亡命してきた。翹岐は「書紀」皇極二年4月条に、飛鳥板蓋宮を建て、行宮にしたと記述されて以後、史上より姿を消して、二度と「書紀」にも、外国の史料にも現れない。・・・そして、皇極三年正月条に、鎌足との出会いの条で、突然、中大兄が登場する。(小林、同書、p60)

ただし「百済本紀」には、武王の死直後のこの時期、百済に政争があったことは記されていない。しかも奇妙なことに、翹岐も智積も本国百済の「百済本紀」には、まったく登場しない人物なのである。 ・・智積も、この時以後、「書紀」から姿を消して二度と現れない。そしてそれに変わるかのように、皇極三年正月条に・・鎌子(鎌足)が初登場する。(同書、p63)

「乙巳(いっし)の変」は六四五年六月のことだったが、この年は大宗による第一次高句麗親征が決行された年だった。(同書、p66)

同年(六四五年)暮れには、蓋蘇文と緊密な連絡を取りながら唐国に反抗する義慈王が、倭国への勢力扶植のために乗り込んできた。この後、義慈王が投影された五年間を、「書紀」では孝徳朝としている。(同書、p67)

蓋蘇文は栄留王を殺害して宝蔵王を即位させたが、宝蔵王は太陽王の息子なのである。太陽王は百済に乗り込み、・・百済・義慈王となった。(同書、p67-68)

「書紀」は孝徳の死という表現によって孝の百済への帰国を表現しているのだ。智積の場合もそうだが、死んだという表現で、亡命や他国への移住を暗示する例は、「書紀」と「三国史記」の場合、意外に多いのである。(同書、p72)

補注: この辺りの小林さんの論述の進め方には飛躍があるかと思う。「百済に乗り込み、・・百済・義慈王となった」・・他国に乗り込んでスムーズに王になれるものであろうか。また、それが史書に記載されている事柄と矛盾しないであろうか。・・他の著書に精しく論じられているかもしれないので、それらを読んでからまた立ち戻ってディスカッションしてみることとし、今回はこのような形で読書メモとしておく。(2016年2月17日)

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補注 白雉(ハクチ) 朱鳥(アカミトリ)

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補注 五行思想について知ったのはつい最近、おなじ小林さんの
小林恵子 白村江の戦いと壬申の乱:唐初期の朝鮮三国と日本 現代思潮社 1987年
を読んだのが最初であり、初めてのことなので、大変とまどった。

現在の私たちが歴史を記載するときに五行思想を持ち出すことはまずあり得ないであろう。しかし、もしも歴史書(たとえば「書紀」)を書いた著者が五行思想にもとづいて歴史を記載したとするならば、どこまでがこの思想にもとづく解釈であるか見きわめることが大切である。よく解きほぐした上で、解説付きで現代文に書き直す必要がある。

たとえていえば、私たちが医学研究論文を書く場合に、DNAからRNAそしてタンパクへという情報の流れ(セントラルドグマ)と分子構造をベースに展開される生化学の知識とは暗黙の前提であり、いちいち脚注を入れたりしない。けれど、もしもそれを江戸時代の医師に語る場合には、その暗黙の前提自体をわかりやすく解きほぐし、江戸時代の医師にわかることばに書き直す必要がある、といった状況だろう。

把握したいのは、「書紀」の著者たちが、どの程度この五行思想にのめり込んで歴史を眺めていたか、そしてそれによって歴史を記載したか、ということである。「史記」の中ではほとんど前面に現れないし、孔子も語らなかった。「史記」よりも後の史書に五行思想の影響を色濃く受けた史書があるのだろうか。その場合に記載の様式はどのようになっているのか。また、「日本書紀」以降たとえば「続日本紀」ではどうなのだろうか。

そのような基盤知識が、私の場合、今までゼロであった。そのため、小林惠子さんの「書紀」解読のリーズンを自信をもって判断はできない。その意味でこの小林惠子さんの一連の歴史書は、今の私にとって難度が高い。それゆえ、面白くもあり、胸内に不安感のようなものをかきたてられる奇書でもある。

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補注 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/淵蓋蘇文
淵蓋蘇文(えん がいそぶん、生年不詳 – 665年(宝蔵王24年))は、高句麗末期の宰相・将軍。泉蓋蘇文、泉蓋金とも記される。
『日本書紀』には伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)として現れる。このことから、姓の「淵(泉)」は高句麗語の「いり(高句麗語で「水源」の意味と推察されている)」を漢字訳したもの、名の「蓋蘇文」は高句麗語で「かすみ」と発音したものを漢字で当て字したことがわかる。
姓は「淵」とも「泉」ともされる。『旧唐書』『三国史記』等が「泉」として「淵」とは書かないのは、もともと「淵」だったにかかわらず唐の高祖の諱(淵)を避諱して類似の意味をもつ文字で代用したのだ、という説もあるが、『日本書紀』に伊梨柯須彌とも書かれているように、漢字訳はもともと便宜的なものであり最初から「淵」と「泉」が並行して使われていた可能性もある。
経歴 642年(栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。しかし安市城の城主だった楊萬春が淵蓋蘇文への権力集中を認めず抗議したことから、淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて安市城を攻撃した。しかし、長期間の攻撃にもかかわらず安市城を占領することができなかったことから、結局2人は妥協するに至り、淵蓋蘇文は楊萬春の職権を、楊萬春は淵蓋蘇文を執政者として承認した。
この頃、高句麗は対外的に緊迫した情勢にあったが、淵蓋蘇文は対外強硬策を採り、高句麗に救援を要請するために到来した新羅の金春秋(後の武烈王)を監禁し、新羅と唐との交通路である党項城を占領した。
644年(宝蔵王3年)、新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、645年(宝蔵王4年)に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(唐の高句麗出兵)。しかし、楊萬春が安市城でこれを阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。なお、その後4回に亘って唐の侵入を受けたが、楊萬春はことごとくこれを阻んでいる。
一方、643年(宝蔵王2年)に唐へ使臣を派遣し、道教の道士8名と『道徳経』を高句麗に持ちこむなど、淵蓋蘇文は文化面でも功績を残した。
『日本書紀』皇極天皇元年条(642年):「秋九月。大臣伊梨柯須彌殺大王。并殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流。金流。爲大臣。」
『三国史記』第4巻 金富軾撰 井上秀雄・鄭早苗訳注、平凡社〈東洋文庫492〉、1988 ISBN 4-582-80492-6

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補注 百済武王 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/武王_(百済)
武王(ぶおう、580年? – 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 – 641年)。27代王の威徳王 の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。
最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐(隋の高句麗遠征)に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。
治世
朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、602年8月に新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には椵岑城(忠清北道槐山郡)を奪い、616年にも母山城(忠清北道鎮川郡)に攻め入った。618年に椵岑城は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。
隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に冊封されている。その後626年に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せたものの、新羅との争いはやまなかった。
先代の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を634年に完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。
在位42年にして641年3月に死去し、武と諡された。この後に使者を派遣して唐に報告したところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には〈光禄大夫〉の爵号が追贈された。
参考文献
『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
『朝鮮史』 武田幸男編、山川出版社<新版世界各国史2>、2000 ISBN 4-634-41320-5
『三国遺事』一然撰 坪井九馬三・日下寛校訂<文科大学史誌叢書>東京、1904(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)

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補注 百済・義慈王
ウィキペディアによると・・・
義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に王族翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。すると貴族らの権力が弱化されて王権が強化された。しかし王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。またこのころは日本に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた

補注:「翹岐」ウィキペディアによると・・・まだ作成中。

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補注 天武
漢風謚名 天武(てんむ)という称号は記紀の編纂にあわせてつけられた謚名(おくりな) 
倭言葉で贈られた謚名 天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひと) 

補注の補注: 天武天皇の和風諡号は「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇」に関してはページを改めて、小林惠子氏による詳しい解説を記すこととしたい。「瀛」に関して、たとえ当時「済州島」を連想することがあったとしても、天武(大海人)と済州島とを直接結びつける証拠とはなりえないだろう。小林さんの述べるように天武の「瀛」も、済州島の「瀛」もともに神仙思想の同根から来ているのであって、済州島経由で天武の「瀛」が来ていると迂回して考える必要はないだろう。

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