読書ノート

安積の死は聖武朝の滅亡を意味した

2016年3月11日 金曜日 晴れ(昨日は快晴の朝、曇りのお昼、夕方からは雪。今日も朝は素晴らしい快晴)

小林惠子 争乱と謀略の平城京 称徳女帝と怪僧・道鏡の時代 文藝春秋 2002年

安積の死は聖武朝の滅亡を意味した
天平十六(七四四)年閏一月、突然、安積親王が没した。新羅邑(むら)の大魚の報告は安積親王の死を予告しているのだ。・・安積の死は新聖武朝の滅亡を意味した。新聖武は孝謙立太子を認めざるを得なかったが、常に巻き返しを狙っており、私はその過程で安積は没したと思っている。(小林惠子、同書、p98)・・安積は新庄村が(難波京へと)出発した当日、桜井頓宮(とんぐう)で脚の病のために恭仁京に引き返し、(翌々日の)十三日に没したという。(同書、p99)・・それにしても天皇の器仗(きじょう)をすべて恭仁京に置いて難波京に行った新聖武の真意が計れない。 安積が没するとただちに器仗を難波宮に送ることを命じているところをみると、新聖武は器仗の重要さは知っていたと見られるからである。(同書、p100)

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