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源空・黒谷の試練と保元の乱

2018年2月15日 木曜日 雪

町田宗鳳 法然の涙 講談社 2010年

源空・黒谷の試練と保元の乱:

いいえ、とんでもありません。これだけ世が乱れ、人々が苦しんでいるのに、何もできないでいるおのれを歯がゆく思っております。私はあまねく仏典を学び、誰もが漏れなく救われる仏の道を見つけたいと願っています。(町田、同書、p137)

・・西金堂(興福寺)の阿修羅像に見入っているうちに、源空の眦(まなじり)から一筋の涙が流れ落ちた。
ーーこの何かを必死に見つめる眼は、まさに自分が菩提を求めて、いまだそれを手に入れることのできない悲壮な自分の眼ではないか。
そこに立っているのは、阿修羅と化した自分の姿であった。どれほど、その前に立ち尽くしただろう。(町田、同書、p139)

・・源空は今まで経蔵に籠もり、自分一人で学んできたことが、権威ある学匠に認められたことで、一応の安堵を得た。それが今回の旅の成果であったといえば、そうにはちがいないが、その一方で、自分の迷いを払ってくれる具現の師に出会い得なかったことに、落胆せざるを得なかった。(町田、同書、p144)

源空は、延暦寺境内でも僧兵が斬り合い、血を流すのを眼にしたことがあったが、都全体が戦場と化すのを見て、言葉を失った。
ーーこれは、狂乱の世だ。地獄とは、まさに人の世のことではないか。
・・・(中略)・・・
・・貴人たちが身のほどもわきまえず、骨肉相食む戦いは、後に保元の乱と呼ばれるようになった。(町田、同書、p146)

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興福寺・西金堂の阿修羅像 ウィキペディアによると・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺の仏像

西金堂(さいこんどう)は、『興福寺流記』に引く「宝字記」によれば、天平6年(734年)、光明皇后が、その前年に没した生母橘三千代の菩提のために建立したものである[43]。

西金堂は永承元年(1046年)の大火、治承4年(1180年)の平重衡の兵火、嘉暦2年(1327年)の大火で焼け、その都度再建されたが、江戸時代の享保2年(1717年)の焼失以降は再建されなかった[44]。
「宝字記」によれば、奈良時代の西金堂には釈迦如来像、両脇侍像、梵天・帝釈天像、十大弟子像、八部神王(八部衆)像、羅睺羅像、四天王像が安置され、さらに金鼓(こんく)と波羅門像があった。釈迦如来を中心に守護神像、弟子像などを配置したこれらの諸仏は『金光明最勝王経』「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげほん)に説く釈迦浄土を表したものである[45]。「夢見金鼓懺悔品」によると、釈迦の説法を聞いた妙幢菩薩は、その夜の夢の中で、日輪のように光り輝く巨大な金鼓を見た。その光の中から無数の仏が生まれ法を説いた。一人の婆羅門が桴(ばち)をもって金鼓を叩くと、その大音声(だいおんじょう)は人々に懺悔せよと説くかのようであった、というものである。
13世紀前半頃、すなわち治承の兵火後の成立とみなされる興福寺曼荼羅図(京都国立博物館蔵)の西金堂の部分を見ると、釈迦如来像及び両脇侍像、八部衆像、十大弟子像、四天王像、金剛力士像一対、金鼓と婆羅門像、十一面観音像、羅睺羅像などが確認される。羅睺羅像は、十大弟子像の中にも同名の像があるが、それとは別の童形の坐像である[46]。
西金堂旧所在の仏像のうち、八部衆像8体と十大弟子像のうち6体は、奈良時代の像が興福寺に現存する。ただし、これらの像については、西金堂当初像ではなく、額安寺(大和郡山市)から移されたものだとする説もある。「宝字記」にある金鼓は、現在「華原磬」(かげんけい)という名称で国宝に指定されているものがこれに当たると考えられ、奈良時代または唐時代の作とされるが、後世の補修部分も多い。西金堂の鎌倉復興期の像で現存するものは、本尊釈迦如来像の頭部・両手・光背の一部のほか、金剛力士像2体、天灯鬼・龍灯鬼像、薬王・薬上菩薩像がある(薬王・薬上菩薩像は仮金堂に安置)[47]。
『類聚世要抄』所収の興福寺別当信円の日記に西金堂釈迦像を運慶作とする記載があることから、現存する木造仏頭を運慶作とする説がある。ただし、この仏頭と、運慶が同じ頃に造立した静岡・願成就院や神奈川・浄楽寺の諸仏との間には作風の違いがあることから、仏頭の作者比定については、なお慎重な意見もある[48]。

・・これに対し、興福寺の阿修羅像は少年のような風貌で、わずかに眉をひそめた静かな表情に表され、戦闘神の面影はない[60]。
・・2009年、東京国立博物館と九州国立博物館にて「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」と題する展覧会が開催され、両館で計165万人以上という空前の入場者数を記録した[61]。阿修羅像は、近代以降、多くの文学者や知識人によってエッセーや評論で言及され、和歌に詠まれてきた。堀辰雄は、1941年10月、当時奈良国立博物館に寄託展示されていた阿修羅像に目を留め、その表情について「何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている」「なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう」と描写している(出典:『大和路・信濃路』)。白洲正子は随筆の中で阿修羅像の表情に言及して「紅顔の美少年が眉をひそめて、何かにあこがれる如く遠くの方をみつめている」といい、6本の腕については「その蜘蛛のように細くて長い六臂の腕も、不自然ではなく、見る人にまつわりつくように色っぽい」と評している(出典: 随筆集『両性具有の美』)。
このように、単独で言及されることの多い阿修羅像であるが、本来は興福寺西金堂に安置されていた、20数体の仏像から構成される釈迦浄土の群像の中の1体である。京都国立博物館本「興福寺曼荼羅図」を見ると、阿修羅像は西金堂本尊釈迦如来像の向かって左後方に立っていた。西金堂の諸仏は、前述のように、『金光明最勝王経』「夢見金鼓懺悔品」に基づき造像されたものである。本来戦闘神である阿修羅が憂いを帯びた静かな表情に表されているのは、「夢見金鼓懺悔品」の所説に基づき、阿修羅が懺悔し仏法に帰依した姿を表現したためであると解釈されている[62]。

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