日本文化の原点:原住民の倭人の社会と、秦人・漢人の社会との融合

2018年7月3日 火曜日 雨
岡田英弘 倭国の時代 ちくま文庫 2009年(オリジナルは1976年・文藝春秋;さらに1994年・朝日文庫)

間人皇后とその夫・孝徳天皇

ヤマトトトビモモソヒメとその夫・オホモノヌシの神(崇神天皇紀) vs 間人皇后とその夫・孝徳天皇
・・そうしてみると、この箸墓の由来の物語は、孝徳天皇のさびしい最期に責任のある人々が、間人皇后を悪者にして、自分たちの良心の負担を軽くしようとする心理から作り上げたものであることが分かる。だからこそ、ヤマトトトビモモソヒメは、あんな悲惨な死によって罰せられなければならないのだ。(岡田、同書、p169)
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垂仁天皇の皇后サホビメとその同母兄・サホビコ王 vs 舒明天皇の皇后・皇極=斉明天皇とその同母弟・孝徳天皇
・・サホビコ・サホビメの話しは、要するに、皇后の同母兄弟には皇位継承権はない、と言おうとしているのだが、これはいかにも皇極=斉明天皇とその同母弟の孝徳天皇を思わせる。・・・・(中略)・・・・その後ろめたさがあるから、「日本書紀」としては、そもそも孝徳天皇の即位そのものが不法だったのだ、と主張しなければならなかったのであり、そのためにこのサホビコ・サホビメの話が作られたのである。
 もっともこの話の素材は別にあった。それは稲作儀礼である。兄妹の名前の「サ」は、稲の精霊を意味する言葉である。(岡田、同書、p172)
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「日本書紀」のスポンサー・持統天皇:
・・(神武天皇から成務天皇に至る)この十三代を貫く皇位継承の原理が、皇后の腹から生まれた嫡子による直系父子相続であることは、夫の天武天皇の唯一の正皇后を自任し、一粒種の草壁皇子に、また草壁皇子の一人息子の文武天皇に皇位を継がせようとし、天武天皇の異腹の皇子たちを必死に皇位から遠ざけようと努力した持統天皇の主張をみごとに代弁している。・・・(中略)・・・三つの皇位争いの物語は、こういう持統天皇の立場から、この原理に従わない者は邪悪であり、かならず滅亡するぞ、と警告しているのである。・・・(中略)・・・政争の犠牲となった孝徳天皇については、サホビコ・サホビメの物語によって、その皇位継承権を否認し、さらにその死にもっとも責任があった間人皇后をも、ヤマトトトビモモソヒメの物語によって批判しているわけである。・・・(中略)・・・
 そうしてみると、大和朝廷の十三代のうち、少なくとも綏靖天皇(すいぜいてんのう)から垂仁天皇に至る十代についての「日本書紀」の記述は、すべて七世紀の事件をもとにして作ったことになる。(岡田、同書、p176-177)
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2018年7月4日 水曜日 雨
・・六六三年の白村江の戦で、倭・百済の連合軍は全滅し、三百年ぶりに倭国の勢力は半島から閉め出されてしまう。
 またもや大量の亡命者が倭国に流れ込んだことはもちろんだが、それとともに漢人も秦人と同様、故郷から切り離されてしまったわけで、これを契機にして、原住民の倭人の社会と、秦人・漢人の社会との緩慢な融合のプロセスが始まったのである。これが日本民族の出発であり、日本文化の原点であった。(岡田、同書、p351)
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