職貢図(しょくこうず)

 

2018年7月4日 水曜日 雨(朝から降り続く雨)のち曇り

職貢図(しょくこうず)について:

ウィキペディアによると・・・

職貢図(しょくこうず)は、古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意味。貢職図とも呼ばれる。時代の梁職貢図が有名。
6世紀に梁朝元帝・蕭、・繹)時代に作成されたものが中国史上最古とされ、526~539年頃作成。大きさは26.7cm×402.6cmと伝えられる。しかしこの原図は存在せず、模写された「職貢図」(宋人摹本残巻、1077年)が中国国家博物館に収蔵されており、梁職貢図とも呼ばれる。残存する模写図の長さは200.7cmで、絵中には12の地域からの使者が描かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/職貢図#/media/File:Zhigongtu_full.jpg

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補註 少なくとも倭国使に関しては同じ図であるから、どちらも同じオリジナル由来の模写なのであろう。上記の図で、倭人の姿は南朝の梁の時代である。遣隋使の時代の倭人はまた別の服装で盛装していたかと思われる。閻立本(唐代)の職貢図(しょくこうず)などの画像を見つけて観てみたいものだ。

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補註 職貢図(しょくこうず)に関して、日本の書物が出版されていることも分かった。

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一方、岡田英弘さんの「倭国の時代」には閻立本の職貢図(しょくこうず)が掲載されている。今日現在では、ウェブで閻立本の筆になる倭人の朝貢の姿を見つけることができなかった。

ウェブに掲載されている閻立本(えんりっぽん;唐代)の職貢図(しょくこうず)。

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閻立本の魏の文帝曹丕の像(ウィキペディアより引用):

ウィキペディアによると、この画像は閻立本のオリジナルではなく、北宋時代の模写だろうとのこと。曹丕、二二〇年禅譲を受けた。魏の文帝。「この時代の絵画の特徴は、王の権威を示す社会機能が重視されたため、個性の表現は抑えられ、伝統的な絵画技法がとられた。立本の作品も細く力強い綿密な線が連綿と続く古来の描法である」とのこと(ウィキペディアより)。

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ウィキペディアによると・・・

閻立本(えん りっぽん、生年不明 – 咸亨4年(673年))は中国の初唐の画家である。太宗に仕え、貴族ではあるが宮廷画家として活躍した。人物図肖像画を得意とする。雍州万年(現在の西安市臨潼区)の人。
閻一族は貴族階級であり、匠学の名家として代々宮廷の装飾を担った。宮廷装飾というのは画に限らず、宮中での冠服から車輿の設計、土木事業にまでわたっている。父の閻毗は隋の煬帝に仕え、兄の閻立徳も立本と同じく太宗に仕え、橋梁の構築で偉功があった。
立本も家学をよく学び、政務に通じたことから工部尚書(656年)、博陵県公(668年)を経て、咸亨元年(670年)には中書令(宰相)にまで昇っている。
殊に画に才能が発揮され、武徳9年(626年)には、太宗に命ぜられて「秦府十八学士図」を画き、褚亮が賛を書いた。その他に「王会(職貢)図」・「歩輦図」・「功臣二十四人図」などを画いたと伝えられる。「歴代帝王図巻」(ボストン美術館蔵)は前漢昭帝から隋の煬帝までの歴代13人の皇帝を画いた図巻として著名だが、北宋時代の模写であろうとされる。この時代の絵画の特徴は、王の権威を示す社会機能が重視されたため、個性の表現は抑えられ、伝統的な絵画技法がとられた。立本の作品も細く力強い綿密な線が連綿と続く古来の描法である。この伝統的画法に対して当時、西域画派が台頭し始め、尉遅乙僧(うっち いっそう)などが新風を吹き込んだ。閻立本の伝統的画法は薛稷らが継承した。
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