Austen; Sense and Sensibility (1)

2017年2月8日 水曜日 曇り

Austen; Sense and Sensibility, Penguin Classics 1995 (First Published in 1811)
Naxos AudioBooks; Narrator, Juliet Stevenson, 2005.

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Marianne’s abilities were, in many respects, quite equal to Elinor’s. She was sensible and clever; but eager in every thing; her sorrows, her joys, could have no moderation. She was generous, amiable, interesting: she was every thing but prudent. The resemblance between her and her mother was strikingly great. (ditto, p8)

補註 eager 熱心な
類義語 eager, keen, anxious: 三省堂英語語義語源辞典によると・・
eager は願望の達成に熱心なあまり、しばしばあせりのニュアンスを持つ。
keen は熱心な興味と行動の積極性を意味し、
anxious は元来不安で心配であるという意味であったものが、不安だから早く結果を知りたいという意味に変わり、さらに熱心に望むという意味へと発展したもので、願望が達成できないのではないかという不安な気持ちを含む。
反意語 indifferent

補註 prudent 用心深い 慎重な 分別のある
語源 ラテン語 providens の短縮形 prudens (=far-sighted) が古フランス語を経て中英語に入った。
(三省堂英語語義語源辞典より) 補註の補註 prudent (=far-sighted) ということであるから、遠くを見て、未来に横たわる別の可能性も考えに入れて、現在の言動を慎重に行う態度のことであろう。俗に「トリ頭」という場合には、この prudent (=far-sighted) を欠いた、素早い、しかし短絡的な反応態度を指すのであろう。

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補註 オースティン四冊目。
 冬シーズンはCDチェンジャー装備の四駆のクルマで移動する。音楽も聴くのだが、英語のヒアリング・トレーニングも行う。この2,3シーズンはG.オーウェルの評論集を聴いたり、J.オースティンの Sense and Sensibility を聴いて運転してきた。後者は、Juliet Stevenson 女史の朗読(当ブログでは、V.ウルフ本 To the Lighthouse の朗読に関してすでに紹介している)で、まさにプロフェッショナルな一人多役、素晴らしい朗読である。
 ところが、運転しながら聴くので、交通渋滞など信号で気をつかう運転場面では、オースティンの方はすっかり聞き逃してしまう。あるいは高速道路では、我がクルマはエンジン音が大きすぎて、朗読は全く聴き取れない。この時にはいつも、次に買うとしたら、もっと室内の静かなクルマにしようかと、(フラフラッと気の迷いが生じて)思う。
 それでも読書百遍とは行かないまでも何度も同じCDを聴いていると意味は自ずから頭に入ってくる。オースティンの描写力は、オースティンの描こうとした世界(補註##)を生き生きと描くことにおいて、絶妙に天分を発揮する。「平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」「写実の泰斗」と漱石が評価したように。また、オースティンの英語は、その描こうとした世界同様、分かりやすく、もちろん朗読になっても極めて明解である。
 今回は、バラバラになっていた11枚のCDをすべて回収して順番に並べ、ホコリも払って、準備完了。紙の本も参照しながら、一気に読み通すこととした。ここ数シーズンにわたって飛び飛びに理解していた場面を綴り合わせて、写実の技・神に入るオースティンを楽しんでみることとした。

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補註## オースティンの描こうとした世界
 イギリス、新興・小貴族のサークル、主に結婚適齢期の女性の立場から。フィナーレないし終着駅は、結婚。
 働いている人は servant であるが、小説の中では名指しされず、多くは黒子として、いわゆるインヴィジブル invisible な存在である。
 金銭計算は盛んに詳細に描かれるが、地代ないし金利で、それが財産価値である。単位は数百から数千ポンドまで・年当たり。細かい単位であるシリング、ましてはペニーで一個当たり幾らという現実庶民的な金銭感覚は存在しない。「consumerism」 に徹した世界がそこにある。
 ・・この世界の問題点を数え上げれば切りがないが、それでもオースティンの描いた世界は面白いのである。

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・・they would not be sixpence the richer for it at the end of the year. (ditto, p13)

補註 ペニー単位が出てこない、といった途端に一語、 sixpence という単語が使われているのを見つけた。場面は、エレナーの(母違いの)兄が、彼女たちに年金をあげようかどうしようか妻と相談する場面である。年金をもらったからといって生活を贅沢にしてしまうと、その年度の終わりには6ペンスも資産が増えていない、なんてことになるから、やっぱり年金をあげるのはやめよう、という、実にケチな相談が夫婦して行われる。6ペンスという言葉が、交換価値としてのお金そのものではなく、資産計算においての些少の金額として実に効果的に使われている。

 対照的に、6ペンスなどが「お金として」大きな交換価値として使われている場面として、
1)ジョージ・オーウェルのパリ・ロンドン放浪記。サンチームの単位が貴重!
2)少年デイヴィッド・コッパーフィールドの一人旅の道で。
3)最近読んだアガサ・クリスティの1930年代、シリアでの現地発掘作業員へのお給料。2ペンス単位で正確に計算把握される。(Come, Tell Me How You Live: An Archaeological Memoir)
4)これも最近読んだ「プラム・クリークの岸辺で」、ローラとメアリーが学校で使う石版を買う場面。石版を買うお金しか所持しておらず、それに書き込む筆記具(チョークのようなもの?)を遠慮して買えない。(ペニーではなくセントではあるが)。
などなど、しっかり描かれている場面も思い出されるのである。これから、英米に限らずいろいろな文学を読むときにはこれら細かいお金が使われている場面には特に気を配ってノートをつけてみたいと思う。

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補註 Cowper
William Cowper (1731-1800). Poet and admirer of the picturesque.
Marianne’s admiration of Cowper, like her pleasure in the pianoforte, leads to speculation that she is closer to her creator than her satirical treatment might otherwise suggest. (ditto, Chapter III, Notes, p398) 作者のジェーン・オースティンに、マリアンは(姉のエレナーよりも)近しい。・・とはいえ、作者がいつもいつも自分の分身を小説の中で描かなければならない謂われはないのであるが。

補註 Newspaper
Newspaper and periodicals were often circulated among a wider circle than the purchaser’s family since they were an expense (about sixpence). (ditto, Chapter IV, Notes, p398) 当時のExeterで発行されていた新聞は、2種。サークル内で回し読みされていたらしい。6ペンスは端金ではなく、少しく貴重であったのだ。

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IMG150109021

参照する紙の本は、上の写真の上側、Wordsworth Edition の合冊本、ならびに写真の下側、ペンギン版の単行本である。

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以下は2015年4月2日付けの記事「分別と多感」、並びに2015年1月11日付けの記事「ジェーン・オースティン:Janeite vs Anti-Janeite」を再録する。

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ジェーン・オースティン:Janeite vs Anti-Janeite

2015年1月11日 日曜日 追記

調べてみると、私が見たことのあるオースティン映画は、『Sense and Sensibility(いつか晴れた日に)』 監督:アン・リー 出演:エマ・トンプソン 1995年 のようだ。主演のエマ・トンプソンは脚本も担当したとのこと。彼女の演技も素敵、そして舞台も風景も実に洗練されていて美しかった。

ネットで簡単に調べてみただけで、 「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」 (夏目漱石『文学論』) という漱石からの引用も見つかった。

以下は引用(読み継がれる文学作品~ある女流作家の場合  Julius_caesar2 さんのブログより引用) http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55096938.html   「Jane Austen は写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入るの点において、優に鬚眉の大家を凌ぐ。余いふ。Austen を賞翫する能はざるものは遂に写実の妙味を解し能はざるものなりと。」  (夏目漱石『文学論(下)』 (岩波文庫)第四編 第七章 写実法 P.167)  「たしかに彼女の世界は限られていて、彼女がとりあつかっているのは、田園紳士、牧師、中産階級の人びと、といったごく狭い世界であるにすぎない。しかし、彼女ほど、人間を見る鋭い目をもった者が、これまでほかにあったろうか。彼女以上に、細かい心づかいと慎重な分別とをもって、人間の心の奥底に探りをいれた者が、ほかにあったろうか。」  (W.S.モーム 著/西川正身 訳 (岩波文庫) P.54)  (中略) こうしたJaneite (オースティン好き)がいる一方、アンチ・オースティンも確かに存在する。オースティン嫌いの存在を黙殺することはフェアでないと思うし、作品理解のためにはそうした意見に耳を傾けることも有益であると考えるので、ここに二人ほど紹介しておく。「『高慢と偏見』を読むたびに、オースティンの墓から骨を掘り出して、その頭蓋骨を脛の骨でぶったたいてやりたい」 (マーク・トウェイン)  「オースティンはイギリス人だ、悪い、卑しい、俗物的な意味で」(D.H.ロレンス)  以上、http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55096938.html より、引用。

漱石もモームも、そしてマーク・トウェインもDHロレンスも、4人とも私が10代の頃から今に至るまで読み続けてきた作家である。私は4人とも好きで、いろいろな時期に大きな影響を受けてきた。私はこの4人をいくらかでも知っているつもりなので、オースティンをそれぞれこんな風に評するのは実に良く理解できる。そして、オースティンに対する今の私の気持ちは、この2つの対極の間で大きく揺れてしまうのだ。

実は今回、Jane Austen and consumerism というタイトルでエッセイを書いてみたのだが、私自身の考えが未熟で上手にまとまらず、満足のゆく文章にならなかった。そのため、今回はその導入部分だけを公開させていただいた。導入部はJaneite (オースティン好き)の私。後の部分はゆっくり、いずれ考えを深めていった上でいつか書き直して仕上げたいと考えている。

4冊目も読むかどうかは、現在考慮中。

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理性と感情 vs 分別と多感

2015年4月2日 木曜日 晴れ 暖かい

Sense and Sensibility / Vernunft und Gefühl – zweisprachig Englisch-Deutsch / Bilingual English-German Edition…2012/11/21 | Kindle本
Jane Austen、 Igor Kogan

「―分別と多感―」― Sense and Sensibility 

先日このブログでも紹介したジェーン・オースティン、もちろんドイツでも人気で、英語とドイツ語の対訳本が発行されていることを今日発見した。その訳がおもしろい。

Sense: ドイツ語ではVernunft と訳すのか・・・もちろん Kritik der reinen Vernunft で覚えているとおり、私たちは die Vernunft を「理性」と訳し慣れている。手元の辞書では、理性、分別、英語では reason。

Sensibility: 一方の das Gefühl の方は、感情、気持ち、情緒、英語では feeling。英語の原題の Sensibility を多感と訳すとやや訳しすぎ、感情やや過多に感じてしまう。が、feeling イコール Gefühl というのはぴったり過不足ないような気持ちイコール feeling を抱いて落ち着ける。

しかし、sensibile > sensibility が イコール feeling というのも、どことなく得心がいかない。 sinsibility は、鋭敏な感覚・敏感さ、などと訳されている(英語語義語源辞典・三省堂より)。sensible 分別がある、sensitive 敏感な(政村・英語語義イメージ辞典・大修館書店より)。sense and sensibility の語義のイメージを把握するのは意外と難しそうだ。Vernunft und Gefühl というドイツ語訳も、分別と多感という日本語訳も、はたまた reason and feeling という英語への戻し訳も、オリジナルの sense and sensibility という英語に十分に対応し切れていないようですっきりしない。

オースティン本のようないわゆる「読みやすい」本でも、他の外国語と対照させながら読んでみるとそれぞれの国の言葉の語感をどう捉えているのかを再認識させられるよいチャンスになるかもしれない。ただし、今はやや時間と心のゆとりがないので、老後の楽しみということにして来冬以降に先延べ。

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