「安心な老後」と「末は小町」

 

一読すると、なるほどと感心する文章だったのに、しばらくしてから、スッキリしないものがホコホコと浮かんでくることがある。 WEBページに公開されている「末は小町をめざして」という田中優子さん(以下TYさん)の文章もその一つである。私なりにあれこれ考えてみてたどり着いた結論から先に述べると、TYさんの文章の全体の論旨には共感させられるのだが、「安心な老後」と対比された「末は小町」という言葉の使われ方に私独特の引っかかりを感じているのである。以下にWEBページから一部を引用しながら何がそしてどうして引っかかるのか考えてみたい。少し長い引用となるがご容赦いただきたい。

*****

<以下引用>  http://onnagumi.jp/koramu/anosuba/anosuba44.html

なぜかしきりに、今までの様々な事柄からリタイアしたいと思っている。今は、従来の発想ややりかたを墨守していては切り開いていかれない時代だ。自分自身が変わりたいからだが、それより何より、二〇代から四〇代の人たちが思い切り力を発揮できる環境が必要で、そのスペースを空けたい。同じ世代の中には、これから権力を握ろう、これからいい思いをしよう、という人たちもいるのだろうが、そんな人間が多くなったら最悪だ。最低限のことを伝授しつつ、道を譲る時なのである。このごろはふと気がつくと、その「伝え方」と「あけかた」を考えていることが多くなった。

江戸時代では、それを隠居といった。隠居は世間的な価値とは異なる生き方をする時間で、可能な人であれば三〇代から隠居した。そう極端でなくとも、五〇歳にでもなれば隠居し、運良く生き延びれば、次の地平で異なる生き方をしたものである。隠居には後身に道を譲る、という意味も含まれる。だからたとえ重要な仕事をしていて、しかも元気であっても、隠居は早くすべきなのだ。そうでないと社会が停滞する。

「そんなこと言っても老後が不安で」という人が多い。不安でない老後を保障しろ、という人もいる。しかしそうなのだろうか。江戸時代の隠居は、年金がないから自分で稼いだお金で隠居生活を送った。そのために、若い頃から節約するのは当たり前だった。湯水のように金を使った人まで「不安の無い老後を」というのは虫が良すぎる。華やかな生き方をするのであれば、「末は小町」を覚悟すべきだろう。この場合「小町」とは「卒塔婆小町」の意味で、老齢のホームレスの女性を言う。

老いたら、この先自分はどうなるのか、いつまでどのように生きられるか、不安なのが当たり前だ。しかしその不安と引き替えに「自由」がある。それが隠居という生き方である。芭蕉は隠居後、金を持たずに旅をし続けた。それは「野ざらし」を覚悟の上の、生き方としての旅だった。地位も金も肩書きもない、何も持たない己れと向き合う、実に深淵な自由である。日本には、そういう老いかたの伝統がある。

私は、「安心な老後」など送りたくない。千年以上の文化が作り上げてきた深みを、崖っぷちから覗きたいのである。 <引用終わり>

*****

今回はいくつかの問題提起を箇条書きで並べてみたい。順不同である。

1.衰老落魄説話のヒロイン小町: 小町は奈良平安時代の貴族文化の担い手の中でさらに伝説の中のアイドル。貴族たちの生活の基盤は律令制の下での租庸調すなわち庶民の労働に支えられているものであった。この時代の社会は、武士による封建制支配へと移行する前の時代、すなわち貴族による奴隷制支配の社会構造である。貴族の生き方は寄生的であり生産に携わることがない。小町が貴族の零落した姿であったとしても、奴隷・庶民にまで堕ちたのではない。如何に辺縁に押しやられたとはいえ、貴族の集合の中の要素であり続けているのである。「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」ということとそれでも貴族であることとの間に明確な矛盾が存在している。

2.出家、その象徴としての西行: 奈良時代の国家事業としての仏教、平安貴族の栄耀栄華の持続を願う呪術事業としての仏教、この時代の中で僧侶といえども国家のお抱えであり、いわゆる国家公務員・官僚である。この社会制度のもとでは、僧侶であること自体、「地位も金も肩書きもない、何も持たない己れ」には成れないことを意味する。芭蕉の敬愛する西行、彼が武士を捨て妻や幼い子供を捨てて出家してもなお、「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」には成れないのである。西行は、世を捨てて仏教を選んだというよりもむしろ他の(すべてとはいわないまでも)非常に多くを捨てて芸術を選んだというべきであろう。実際、西行には豊かなサポートがありしっかり暮らしてゆくことができた。もし西行が武士を捨てた上にさらに本当に「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」になってしまえば(あり得ない仮定ではあるが)現実的に生活してゆくことの重みが両肩に重くのしかかり決して芸の道に生きることはできないのである。

3. 芭蕉: 江戸での俳諧の高名な師匠としての暮らしは、今でいうところの芸術大学のタレント教授のような持てはやされる暮らしであろうか。それら安定した暮らしの選択肢を捨て、晩年になっても病身となっても旅に生きる。TYさんの文章にあるように「芭蕉は隠居後、金を持たずに旅をし続けた」ことはほぼ事実かも知れない。が、各地にそれぞれ支援者の層が厚く、旅の姿は乞食のようであっても本当の乞食ではない。芭蕉が芸の道に生きることはそのまま封建制度下の米作り百姓に寄りかかって生きていることになる。「実に深淵な自由」ではあったかもしれないが、芸を売って米を買わねばならぬという意味で、百姓の生産労働に依存した範囲内での自由と考えねばならない。これは本当の自由と言えるのか。

4.  翻って、現代の筆者TYさんによる「末は小町をめざして」: 筆者は言う、「日本には、そういう老いかたの伝統がある。私は、「安心な老後」など送りたくない。千年以上の文化が作り上げてきた深みを、崖っぷちから覗きたいのである。」と。

「千年以上の文化が作り上げてきた深み」は、平安女流文学そして西行・宗祇・芭蕉に代表される文芸文化を意味されているのだろう。それら価値の高い文化を継承すべき私たちにとって「安心な老後」を否定して、それら古人の求めたものを求めて老いを過ごし死を迎えたいという主張には共鳴させられるものがある。

しかし、視点を変えて考えてみよう。 判然としないのは、「末は小町をめざして」の「小町」のイメージである。作者は同じ文章の中で、「この場合「小町」とは「卒塔婆小町」の意味で、老齢のホームレスの女性を言う」とわざわざことわっている。卒塔婆小町は能作者らによって作られていった衰老落魄説話として中世社会に広く語り継がれたという。しかし、現代に生きる筆者によって、老齢のホームレスの女性、その通りの意味で小町という言葉が使われているのか。どこかに捻れが隠れていないか。

庶民の中に紛れ込んでいることはあり得るかもしれないが、小町は貴族、それもたとえ過去の栄光とはいえ文芸界のアイドル・ヒロインである。筆者TYさんは、小町の所属する貴族・文芸を愛して生きる集合の中の一員として最期の自分を想定し、また、大学教授や知識人たちで構成される仲間たちに呼びかけているのではないだろうか。この零落小町を自分の老後に想定される危険の最悪レベルと想定している人が、「安心な老後」を否定したとしても、否定された末に残る最悪の「安心でない老後」はそれほど悲惨な老後ではない。すなわち、自分は衣食の生産に携わらなくとも衣食が他者から供給されるという十分に守られ依存した老後、そして普通の医療が受けられ人並みの利便生活が確保された老後、それぐらいは当たり前としている言論ではないか。であれば、ここに否定されている「安心な老後」というのは、大学教授や知識人たちいわゆる現代の貴族ともいえる人たちを基準とした贅沢な老後であり、現在の一般庶民が想定しなければならない「安心でない老後」を念頭に置いていないのではないか。

私は、「安心な老後」という言葉は、「贅沢な老後」とは違うと思う。より良い社会を作ってゆく上で決してなくしてはならないものとして、否定してはいけない形で使われるべき言葉だと思う。私は「安心な老後」としてたとえば以下のようなものを想定してみる:

a. 家族そして地域や社会の中で人とつながり、役割を担い果たしてゆくこと: 生産への参加

b. 衣食住と医療介護などが必要に応じて他者と等し並みに得られること: 生存の平等

c. 仲間たちや子孫たちが今よりも少しずつでも良い方向へと向かう社会を築いていくだろうと期待して生きていられる老後:  社会幸福の漸増

d. 私たちの積み重ねてきた価値あるものが仲間たちや子孫たちに価値あるものとして継承されると安心していられる老後:   文化・価値の継承

このような観点からは、戦争や原発事故による家族や地域社会ないし国や世界の突然の壊滅を想定することは、「安心な老後」の否定形の最たるものだと思う。

西行・宗祇・芭蕉のような芸術家は民族の歴史の中で、千年にひとりか二人の逸材である。他のすべてを捨ててその道一筋につながって芸を磨いてゆく「老いの伝統」というべきものがもしあったとしても、私たちにはその伝統を安易に模倣できるとは考えない方が良い。むしろ、地域のそして世界の人々とつながりながら安心な老後をひとりひとりが確かに得られるような、そんな社会を築くことを目指してゆくべきではなかろうか。実に平凡に聞こえるかもしれないが、私はそう思う。

2014年7月16日 水曜日

*****

追伸:

文章をそれ単独で読んで理解する立場から離れて考えてみるのも良いかもしれない。たとえば、どういう状況に生きている人が書き、それまではどのようにして生きてきたか、そして(過去の文章であれば)書いた人はその後どのように生きていったか、という歴史である。視点をさらに展開させて、その文章が読む人によってどのように受けとめられていったか、時代の流れによってそれがどのように変わっていったかなど、歴史的な視点から資料を集めてみると、また違った理解が可能かもしれない。いわゆるメタ解析である。いずれは「末は小町」のメタ解析を試みてみたいとも思った。

しかし、今は7月、夏の真っ盛り、農繁期。照りつける太陽を浴びながらの畑仕事で多くの時を過ごしている。私自身にとっても切実な課題ではあるものの、「安心な老後」に関するさまざまな発言や考察に関するメタ分析はまたいずれかの機会に。

********************************************

田中正造の問題

 

2010年7月6日

 

宇都宮に出かける所用があり、空いた時間を利用して佐野を訪れた。

宇都宮から東武線で栃木へ。約40分。栃木から両毛線に乗り換え。といっても1時間にせいぜい1本ぐらいのローカル線のため、待ち時間が一時間近くもできたため、蔵の街栃木を散歩。駅前通には学習塾が並び、教育熱心な地域と感じる。

栃木から両毛線。宇都宮から栃木・佐野・足利経由で前橋・高崎に向かう両毛線。この鉄道に乗ったのはこれが初めて。前橋まで行って朔太郎ゆかりの利根川の畔も散策したかったが、今日は佐野と決めている。栃木から数駅で佐野へ到着。駅の北側が城山公園、藤原秀郷ゆかりの佐野城趾。

城趾の遺跡を巡った後、駅の南側に回って駅前通沿いでラーメン屋さんに入り、チャーシュー麺でお昼とする。チャーシューという言葉を聞くと、金子光晴が友達をチャーシューになぞらえた晩年の詩がひらめいて思い出し笑いしそうになる。当分この習慣が続きそうだ。

********************************************

日光例幣使街道(旧50号線)へ曲がって、秋山川を渡ってしばらくいってから左手に曲がると佐野市郷土博物館。

正面の一室が田中正造関係資料の常設展示。表装され巻物になっている「謹奏 田中正造」。正造の加筆訂正の墨の上に捺印の朱の色彩。幸徳秋水が「臣ガ狂愚」としたものを、「臣ガ至愚」と訂正捺印、そのほかにも多くの訂正加筆がある。

遺品の石3個も、有名なものであったが、今回初めて実物を見ることができた。その隣には菅笠なども展示されていて、正造の姿が偲ばれる。

田中正造関係地図の脇に、大正2年8月、病床にあった時に、「(見舞いの人々は)田中正造の病気に同情しても、田中正造の問題に同情している人はいない、帰ってもらえ」、と看護の女性に言った、と書かれていた。

********************************************

郷土博物館を出て、田中正造生家に向かった。7月の梅雨の合間。曇り空とはいえ、陽射しも明るく、30度を超える猛暑である。札幌暮らしに慣れた私にはこの炎天下を歩くのは厳しく、すぐにぐうの音をあげてしまいそうである。しかも当日は金曜日で、正造翁の生家は休館日(週に3,4日しか開館されない)。たどり着けても、中の資料などを見せてもらうことはできない。

270号線を北上し、菊川町の交差点までも歩けばかなり遠かった。日頃、白石サイクリングロードで鍛えているにしては、すぐに足の裏が痛くなって歩きが苦痛になってきた。

 

 

Exif_JPEG_PICTURE

 

237号へ左折。しばらくゆくと右手に榎木の大木と看板を見つけたので、道を渡って行ってみた。堀米地蔵堂。明治2年、正造29歳の時にこの地で手習い塾をしていたとのこと。明治39年、晩年の正造が木下尚江らを案内した当時の写真が看板になって掲げられていた。若き正造が手習いの師匠をしていた時分には「子供の手ほどの」小さな榎の木が、40年近くを経て大木に育っていた。計算すると、今ではさらにそれから104年、上の写真のように立派で元気なまま立っている。虫が食って中が洞になったりはしていないので、まだまだこれから。これからも地域の人々に守られて、そして地域を見守ってゆく榎木。

梅雨の時期とあって道沿いの溝の水は増水している。水は意外ときれいだ。あっと驚いたことには、足元を流れる溝に大きな真鯉が泳いできた。5,60センチはあろうか。増水で池から泳ぎ出てきたものかもしれない。私の田舎の近所の小川でも、梅雨の大水の後はよく、普通には見たこともないような大物が泳いでいたことを思い出す。佐野の237号線沿いの溝はせいぜい幅1メートル程度の小さな流れであるが、よく見ると10cmばかりの緋鯉や、同じぐらいの大きさのフナやコイのような魚が幾匹も元気に泳いでおり、水もきれいで、なかなか豊かな感じである。

足も痛くなり、のども渇いて、ほぼへとへとになりながら、正造翁の旧宅に到着。今度のコースは、余程の健脚か余程の思い入れのある方以外には徒歩では奨められない散歩道と言える。バスなどの公共交通機関も無いわけではないが、数時間に一本なので、時刻表に照らしてうまく往くことができても復路は歩かねばならないだろう。トラックは多く行き交うが、何時間も歩いてもこの街道筋ではバスやタクシーには行き会うことがなかった。私が佐野駅の案内所でもらってきた観光地図には距離が書かれてない。概念的な略図なので、意外と歩けば近いかもしれないという錯覚に陥る場合もあり、このように歩いてみようという無謀も(観光客によっては)やってしまうのかもしれない。ただし、当日は金曜日ということもあり、観光客と言えるような人には一度も一人にも会うことはなかった。

小中町の旧宅。

Exif_JPEG_PICTURE

 

ご覧のように小さな民家で、お隣・裏隣のお家も近接している。タクシーが停まる駐車場や観光バスを止めるスペースもない。よって、今回の私のように徒歩でやってくることが推奨され得ないとすると、自転車で訪ねるのがベストと思われる。
生家の道をはさんで向かい側には分骨されたお墓があり、今日も新しい百合の花が生けられていた。97回忌の卒塔婆、その隣にはカツ夫人の74回忌のものが立てかけられてあった。

翁のお墓の隣にあったブランコにすわってゆっくり考える。さて、私は、田中正造のお墓に詣でることはあっても、田中正造の問題に立ち向かうことはない、と正造翁から叱られないだろうか。

私の場合は、私の本業とする医学や生命科学、学問や教育の中でも、多くの人々を苦しめている難題が存在する。それらの問題のどれか本当に大切な問題を見つけ、それに本当に真摯に立ち向かい闘い続けることが、正造翁の遺志に添うことだと思う。私が、がんの治療法の研究を始めて、今年が30年目に当たる。何とか結果が出せるよう、あきらめないで、さらに少しだけでも続けてみたい。

********************************************

佐野の郷土博物館で見せてもらった資料によると、渡良瀬川の大洪水の折にも、ここ小中町までは洪水が押し寄せなかったという。洪水が広がったのはここから南側の地域である。次回、もし機会があったら、渡良瀬川流域、谷中方面もできるだけ広範に歩いてみたいと思う。また、足尾の方も訪ねてみたい。健脚とも言えないので、やはり自転車の旅を計画すればよいのだろうか。

********************************************

正造翁の旧家を少し先に進むと、増水した濁流の旗川に出た。今回の歩きはここまでということにして引き返す。

途中、人丸神社にもお参り。池の睡蓮が美しかった。これからは諸国の柿ノ本人麿のゆかりの地にも是非足を伸ばしてゆきたいものだ。(去年の7月は太宰府辺りをたっぷり歩くことができた)

帰りは菊川町交差点で237号を直進し、佐野の街の北側を歩いて佐野駅の南口へ。佐野の歩きが5時間にも及び、強行軍であった。(弱音を吐いては、正造翁に叱られそうで、頑張らねば、と思うのだが。) 栃木に着いた頃から雨が降り出し、東武宇都宮線では、雷と大夕立。宇都宮駅前で名物の餃子のお店に入って雨宿り。出てきた頃にはほぼ雨上がり。少し運が良かった。

旅から帰って、着ていたノースリーブの下着を見てみれば、汗が乾いて白い塩の線となり、それが何本も等高線の地図を描いていて、すさまじい発汗量であったことがわかって面白かった。

*****

 

以上、2010年7月6日付けWEBページより再掲

 

********************************************

怪力乱神を語ろう

 

怪力乱神を語ろう: 肺癌プロジェクト開始

2005年6月24日

先日、DVD版ウルトラQを借りてきて見てみた。ウルトラQは、40年近く前、私も夢中で見ていた数少ない想い出のテレビ番組であり、懐かしの映像をDVDで見られるのかと思ったら、今回のDVDは、驚いたことに完全な新作であった。観ると、実に怖い。現在の東京、現実の風景の中で、怪異の現象が起こり、人は孤独の中で恐れにとらえられ、現実と夢との見分けさえつかなくなってしまう。「らくがき」、「わたしはだれ?」、「顔のない女」など、短い時間に展開されるストーリーなのに、極めて複雑で、実に怖い。

 

ティガ以来、ウルトラマンの造形は極めて美しい。私は、ティガ、ダイナ、ガイア・アグルと続くウルトラマンをすべて観てきている。劇場映画もほとんど欠かさず映画館で観てきた。ムナカタ副隊長・レナ隊員・ダイゴ隊員、など、今もすらすら懐かしく思い出す。私はティガのファンである。(隊長の女性の名前を今、忘れしてしまった。歳はとりたくないものだ。)私は、浅草ロックのウルトラマンのビルにも何度も通い、レアもののバルタン星人なども購入した。(もちろん、プレゼント用である。) さらに、主題歌の最初の和音だけでどのウルトラマンか当てるクイズなどにも参加したので、今でも多くの主題歌を歌える。ガイアの主題歌を道で歌っていて、どうしてそんな古い歌を歌うのかと、たしなめられたこともある。しかし、ガイアの歌詞を知っている方なら、この歌がどんなにいい歌か、先刻ご存じであろう。古いというなら、初代やセブンの歌もちゃんと覚えているので、我ながら不思議である。ただし、私は、特に、高山ガムとガイアのファンである。ガムのような天才科学者であったらどんなにすてきなことか。札幌に移ってきて、コスモスの頃はしばらく遠ざかっていたが、今のネクサスには、非常に熱中している。リコが死んでしまった場面など、コモン君にすっかり同化してしまうのを抑えられなかった。夢の中でうなされて、汗びっしょりで深夜に目覚めてしまった。主人公の恋人が死んでしまうなんて、ウルトラマン40年の歴史の中でも初めてのことではなかろうか? としたら、私が悪夢でうなされるのも当然だ(と思いたい)。明日の土曜日は、恐らく、ネクサスの最終回。レンは助かるのか、ナギ副隊長にどんな恐ろしいことが降りかかるのか、ネクサスとビーストの戦いは最終的にどうなるのか、とても心配だ。

 

ウルトラマンの存在しない現実世界での、ウルトラQの救いようのないサスペンス。これは、本当に怖い。(40年前の)怪獣は塩に弱いナメクジ怪獣だったりしたので、人間だけの手で何とかやっつけられることもあったのだが、もし、もう少し強かったら人類の文明は簡単に滅びてしまう。そうでなくても、日常の何気ないことの中にも、怪異が潜む。逃れようがない。地球に住む私たちは、絶えず不安にさいなまれる。それがウルトラQの世界だ。ウルトラQとウルトラマンの関係がどうなのか、別に詳しい考察を要するが、私の子供のころ、ウルトラQが終わって、そして、ハヤタ隊員と光との遭遇があり、ウルトラマンが始まったのである。ウルトラマンの顔はアルカイック・スマイル、広隆寺の弥勒菩薩像の顔である(注*)。

 

そこで、今日は、何が言いたいかというと、私たちのグループの「肺癌プロジェクト」開始、である。多くの肺癌は、簡単には見つからない。見つかったときにはすでに手遅れである(場合が多い)。なぜか、肺癌による死亡はこの50年でぐんぐん伸びている。喫煙が悪いと知られていながらも、最近も、女性の喫煙は増えてきており、今後も肺癌が増え続けると考えられている。この、忍び寄る、少しずつ増えてゆく日常の恐ろしさが、どことなく「ウルトラQ」の怖さに似ていると思うのである。

 

標的化分子の検出を利用した診断法で肺癌を早期発見し、手術できないものに関しては新しい標的化治療で治す、これが、私たちのストラテジーだ。私たちのグループでもようやくメソッドが確立してきたので、いよいよ肺癌プロジェクトに真剣に取り組んでいきたいと考えている。また10年かかるプロジェクトかもしれないけれど、これから、はじめてゆく。

 

(注*)参考文献: 成田亨 特撮と怪獣 わが造形美術 フィルムアート社 1996年

 

*****

 

以上、2005年6月24日付けのWEBページより再掲

 

********************************************

 

 

フライデーカジュアル

 

石津謙介さんとフライデーカジュアル

2005年6月3日

先週、石津さんが亡くなった、という報をNHKの朝のニュースで聞いた。93歳。もっともっと長生きしてもらいたかったのに、残念だ。私は、石津さんのファンで、このオフィスにも石津さんの本を何冊も置いている。同じ岡山県出身の大先輩として、内田百先生と石津謙介さんの文章は、日頃楽しみにして親しんで来た。百先生は芥川の友達世代で、私の生まれる頃には亡くなって、もちろん面識のあろうはずもない。が、石津さんには、もう少し、ないし、もっとずっと長生きしてくれていたら、個人的にお会いして親交を深めるチャンスもあるのではないかと楽しみにしていた、そんなファンだったのである。1911年生まれということで、私とは二世代ほども年齢差があるが、最近の石津さんのエッセイなど読ませてもらっても、昔の人、という感じなどどこにもなく、同時代を生きる先輩、といった親しみを感じるのである

この6月(2005年)からは、夏期間、省エネのため、ノーネクタイとノージャケットで過ごそう、というキャンペーンが始まっている。昨夜はテレビで、小泉さん(元首相)と岡田さん(元民主党党首)が靖国参拝を巡って国会で議論している姿が報道されていたが、小泉首相はノーネクタイ、岡田さんはネクタイはしているものの、二人ともジャケットなしであり、一見して気づかれるほどの珍しい国会風景であった。NHKなどの解説を聴くと、このキャンペーン、冷房を28度に抑えよう、という省エネルギー対策が一番の骨子のようだ。東京で28度の冷房では、確かにネクタイはしていられない。ここ札幌では、気温が25度を超えるような夏日は7、8月でも数えるほどしかおとずれない。よって、28度の冷房など考えたことがなかった。冷房のスイッチを調べてみたら、確かに28度設定は可能である。18度から30度までの範囲で調節可能だ。私も早速、冷房28度にしてみた。注意すべきことは、札幌で「冷暖自動」の設定になっていると、28度では、ひょっとして普通は暖房になってしまうかもしれないことだ。しかし、何故か、私のオフィスは「冷暖自動」では27度が最高の設定温度である。ちなみに、暖房の設定は最高26度と、さらに低く、冬場は私のオフィスはかなり冷え込んでつらいことがある。(天井に取り付けてあるエアコンの出口付近の温度計でスイッチが調整されているとのことで、実際の生活空間の室温はぐっと冷えている。)

S大では大学の法人化を2年後に控え、私も、定款作りをはじめとして、多くの会議に参加している。昨日は、6月に入ってから初めての会議だったので、皆さん、どういう服装でいらっしゃるか、楽しみだったが、ノーネクタイは私のほかには、事務局の若手の方、お一人だけ。ただ、事務局の皆さんはT課長をはじめ、皆さんノージャケットで、違った雰囲気でどことなく新鮮である。対照的に、教授の方々は、ネクタイとジャケット、あるいはネクタイに白衣を羽織ってといういつも通りのスタイルのままであり、衣替えの雰囲気はない。世俗のキャンペーンに影響されているように見受けられるのは私ぐらいかもしれない。もっとも、私の場合、今回のキャンペーンを遡ること15年ほど前から、似たようなファッションだったので、私が世間に迎合したというよりも、世の中の動きを示す直線と、私の直線とが、たまたま今回、平面上の一点で交わったに過ぎず、今後は、再び世間から大きくずれてしまって2度と交わることはない、のかもしれない。

私も若い頃は「質実剛健」「弊衣破帽の心意気*」でやってきていたのだが、最近では服装や生き方のスタイルに関して、少しおしゃれをしなければいけないと考えている。もう十分泥まみれ(1リットル培養のK12株のペレットは本物の泥のように見える)になって働いてきて年取ってきたという思いもある。特に、20歳ほども歳の差のある学生たちを指揮する立場となったために、彼らが20年後の自分を重ね合わせて私の姿を見たときに、「あんなふうにはなりたくないものだ」と蔑んで見られるのでなく、20年後には「自分も(最低でも)あんなふうになれているだろう」とある程度の好感をもって見られる程度の線は確保したい。研究室全体の成功を目的として、部員全体のモラールを高めるべく細部にわたって鋭意努力の義務があると考えている。で、私なりのおしゃれは、どんなものか? ―――といって文章にするよりも、日頃の私を観察してみてもらいたい。が、タネを明かせば、お師匠さん、アドバイザーのひとりがこの石津さんである。明治生まれの年寄りなんか師匠にしてどうする、という批判も聞こえてきそうだが、こんなに長生きしてて、こんなに元気にアドバイスしてくれる、ということだけでも、私はすっかり敬服・心酔していたのである。

さて、フライデーカジュアルについて。「会社で働いておかしくなく、客の応接で失礼に当たらず、会社帰りにバーへ立ち寄っても堅苦しくないというのが、週末に会社へ行く服の本来の形**」とのこと。しかし、官公庁やサービス系の会社などとは違って、私たちの研究室は、汗まみれ、泥まみれ、(望ましくはないが、ラットの手術などが失敗したときには)血まみれ、になって働く場所である。知的な「製造業」に分類される職場である。だから、ネクタイなどはじゃま。フライデーカジュアルと言っても、ぴんと来ないほど、日々の服装はラフ。「行き過ぎたドレスダウン***」が徹底している職場である。そこで、石津さんからの提案***: <最近は日本でも、ぼつぼつ「行き過ぎのカジュアル」が目立ち始めてきました。ですからここで少々逆戻りして、「気軽なドレスアップ」を考えようではないかということなのです。 至極都会的な「カジュアル・センス」、すなわち、自分自身で考えた、自由で、そして気楽な「フライデー・ドレスアップ」に身を包んだジェントルマンが、とてもさわやかに、それとなくオフィスや街頭に現れる―――というのが「新しいファッション」ではないでしょうか。>(石津謙介「悠貧ダンディズム 男はいくつになっても不良少年」53ページ 経済界) 上記をふまえての部員の皆さんへ私からの提案: 時には、少しだけ気軽におしゃれしてラボで仕事しよう。そして時には、自由に気楽にドレスアップして、街にも(冬ならスキー場にも)出かけよう。
__________

注: 以下の単行本からの引用です。

* 「弊衣破帽の心意気」 石津謙介 悠貧ダンディズム、経済界、1998年。

** 「フライデー・カジュアルの試み」 石津謙介 「変えない」生き方、毎日新聞社、2001年。

***「フライデーカジュアルの定義」 石津謙介 悠貧ダンディズム、同上。

* 内田百(うちだ ひゃっけん)先生の「」の字(もんがまえに月)は機種によっては文字化けする場合があります。

<以上、2005年6月3日付けWEBサイトより再掲>

********************************************

33年前の疑問が解決 第2章 

<2005年5月28日付けWEBより引用>

2005年5月21日付けで「ほんとうに言いたいことは何か? その2」と題して上記の文章を書いた。が、今ひとつ自信が無く、ホームページにアップすることなく、インキュベートしていた。親しい友人に、上記のことを語ったところ、以下のような快刀乱麻のコメントをいただいた。彼氏は、極めて国語能力が高いのである。

―――君から、昔、そのエピソードを聞いたことがあるが、その時は、そこまで誤解しているとはわからなかった(ので、正解を述べることはしなかった)。

「夜、町を歩いていて――星白みたり夜更けにけり」という短歌、星白みたり、ということは、夜空が暗さを増して、星が(相対的に)明るくなった、という意味。たとえば、夕方から飲み屋に入って、いっぱいやって店を出てみると、(その間の数時間の経過により)夜空が暗くなって、星が明るく光り、夜が更けたのだな、という意味が明らか―――

と教えていただいた。だから、夜通し町をぶらついていたのではなく、夕方からたとえば夜の8時かせいぜい10時ごろまで、極めてあたりまえの時間帯でこの短歌は終結しているのであり、深夜の1時から歩き始めて、明け方の5時までの強行軍は、この短歌のどこからも読み取れない、という訳だ。そもそも、健全な中学生に高校入試で読ませる短歌として、良い子の眠っていなければならない時間帯を詠んだものが出るわけはないのだ。このコメントを聴いた瞬間に、私は33年間の迷妄から一挙に目覚めたのである。「星白みたり」を、夜空が白く明るくなった、と直感したところに、大きな間違いがあり、「星白みたり」は、夜空が暗くなったために相対的に星が明るさを増したのであった。これならば、田舎の暗い夜であろうが、新宿兜町であろうが、北極圏の10月であろうが、成り立つはずだ。(ただし、南極の12月の白夜に星がどのように見えるか、経験が無く、わからないが。)

33年後になって、やっと積年の疑問が解けた。今、考えると、このような間違いをもう二つ三つ重ねれば、県立高校の入試などは危なかったかも知れず、ずいぶん危険な15の春だったことになる。

恥多き人生でもこうやって「生きてて良かった」こと、教えてもらえる友がいることの幸せ、など、しみじみ感じるのである。

それにしても、私はどうして、たとえ短歌の解釈の中でとはいえ、無理矢理、夜通し歩き続けなくてはならなかったのだろうか? 今となっては、その正確な心理の機微の推論は困難である。が、ジェームズ・ディーン主演の「理由無き反抗(Rebel)」、あれと同じ世界がそこにあった、と思う。

そう、反抗である。朔太郎の代わりに、公園のベンチに私がナイフで彫り込むとしたら、このRebel。30年前の私は、決して、出題者の望む答えなど、書きたくなかった。(明瞭に、正解を書きたくないと意識していたわけではないが、正解を書こう書こうとして考えれば考えるほど、出題者の意図に反抗してゆくのである。「エデンの東」の父と子のように。)

今の私の研究も、一面、強烈な反逆精神で貫かれている。私は、決して、N誌やS誌のエディターが期待しているようなジグソーパズルの「missing link」を見つけた、という論文など、書きたくない。誰が同じジグソーパズルで遊んでやるものか。

「いつも、

おいらは、反対の方角を思っていた。」

癌細胞が暴れたいようには、患者の中で暴れさせてはやらない。決して、好き放題にはさせない。

気づかれない方も多いかも知れないが、私のS大学のオフィスには、ずっと阿修羅像の顔写真を飾ってある。興福寺の国宝、乾漆造の阿修羅像。3面の、憂いを帯びた少年の顔である。16年前、奈良旅行の折りに手に入れ、ボストンへ渡り、ホワイトヘッド研究所の自分のベンチにずっと貼り付けていた。癌研で8年、札幌で6年。ずっと私と同じ部屋にいる。この像を見ると、私は、賢治の「春と修羅」を思い出す。そして、何故か、賢治も、夜通し歩き続ける人であった。

*****

<以上、引用終わり>

<2005年5月28日付けWEBより引用>

********************************************