特許の均等論

<以下、2001年5月21日a付けのWEBサイトより再掲>

バイオテク特許の均等論: Festo USAアメリカ最高裁に上告

Nature Biotechnology 19, 394 (May 2001) に最近の「均等論」に関する話題がありましたので紹介します。Festo USAという会社がFCACの決定(Festo decision)を不服としてアメリカ最高裁に上告しました。

Debra Robertson US Supreme Court decision could compromise biotech patents In early April, the industrial automation company, Festo USA Corporation (Hauppauge, NY), petitioned the US Supreme Court to review a highly controversial Federal Circuit Appeals Court decision (Fest…Nature Biotechnology 19, 394 (May 2001)

均等論に関しては、先月の大学院講義で説明しました。以下、その時のスライドの文章を引用します。

<以下引用>

1987年、コーニング社と住友電工、光ファイバー(2,500万ドル、33億円; アメリカから撤退)

伝統的な「文言解釈論」

均等論」による拡大解釈。発明していないものまで均等が適用される。均等であるかどうかを判断するのは、出願時点ではなく、原告が特許を侵害されたと主張した時点。

均等論という特許法の新たな解釈によって、技術大国が特許の利権を拡大し、行使するための制度へ、特許法の役割は大きな質的変貌を遂げた。

<以上、引用終わり>

というわけで、以後、ミノルタハネウエル事件などへと進んでいったわけです。今回の Festo decision は、どうやら literally のほうに傾いた判決が下ったようです。最高裁で争われることになりそうですが、結果は、われわれバイオの研究者にとっても大いに注目すべきものになりそうです。Debra Robertson Nature Biotechnology 19, 394 (May 2001) の論調はかなり拡大均等論支持寄りに思われます。私は、この論調には批判的です。余りにも均等論が強くなりすぎると、製品化のための重要な開発研究が全く魅力のない、インセンティブに乏しいものになってしまいます。その結果、産業の発展が遅れ、ひいては消費者の利益が大きく損なわれることにつながります。たとえばこういうディスカッションをしてみたらいかがでしょうか???「もし、ミノルタがオートフォーカスの開発をあれだけ頑張らなかったとしたら、ハネウエルが代わりにオートフォーカスの一眼レフを作ってわれわれに安価に供給してくれたでしょうか? もし、ミノルタがもともとあれだけアメリカの均等論でうち負かされることを知っていたら、そもそもオートフォーカス一眼レフの開発に踏み切ったでしょうか?」

Debra Robertson Nature Biotechnology 19, 394 (May 2001) から一つ引用します。

<以下引用>

This situation is exacerbated by the implementation in March 2001 of the US Patent and Trademark Office (PTO; Arlington, VA.) policy to publish all US patent applications 18 months after they are filed easing the job of imitators. “Previously, there was no way to acquire information to design around a patent filed in the US,” says Swinton. Access by the imitator to patent specification and the original claims filed “could be a great disadvantage to the biotech inventor.”

<以上、引用終わり>

これなどは、ずいぶん非常識な話です。アメリカをのぞいて日本もヨーロッパも特許は公開制度があります。いままで、アメリカが一人非公開だったわけです。サブマリーン特許はまさに脅威で、国際的には大きな迷惑でした。日本政府も今までアメリカに公開を要請し続けてきました。ようやく

the implementation in March 2001 of the US Patent and Trademark Office (PTO; Arlington, VA.) policy to publish all US patent applications 18 months after they are filed

というところに漕ぎ着けたわけで、当然これが世界のルールです。(注: これ以前の出願にさかのぼって適用されるわけではありませんから、サブマリーン特許がなくなったと勘違いしないでください。)

easing the job of imitators とありますが、imitators ではなく、当たり前の同業者というべきでしょう。このようにこの記事はかなりバイアスがかかった書かれ方がしてあります。いつも通りクリティカルな読み方をしてみてください。

<以上、2001年5月21日a付けのWEBサイトより再掲>

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治療法は特許になるか

<以下、2001年5月21日b付けのWEBサイトより再掲>

治療法はヨーロッパで特許になるか

特許の話題をもう一つ紹介します。

Colm D. Murphy Methods of treatment: Is there any protection available in Europe? Although European patent offices may grant first and second medical use claims, enforcing them against potential infringers may be another matter. … Nature Biotechnology 19, 481 – 482 (May 2001)

アメリカでは、治療法も特許になり得ますが、ヨーロッパや日本では、ヒトや動物に対する治療法は特許になりません。

では、治療薬はどうでしょうか。

<以下引用>

In summary, useful protection for methods of treatment may be obtained in Europe by way of first and second medical use (Swiss) type claims, and such claims appear to be acceptable in principle to the courts of most of the member states of the EPC. The proposed revision of the EPC to specifically allow protection for such claims should clarify the position further. However, there are some issues to be addressed, such as their enforcement, which can only be decided in the national courts and which may well result in different outcomes between the member states.

<以上、引用終わり>

つまり、特許を取ることはできるけれども、侵害の適用に関しては、それぞれの国での判決に待つことになる、となります。

ところで、特許に関する国際的ハーモナイゼーションの観点からは、治療法が特許になるかどうかは、やはり今後、国の間の判断の違いをなくしておいた方が良いだろうと思います。そのとき、アメリカも治療法に関する特許は認めない、という方向に向かうのか、逆に、日本やヨーロッパが、治療法に関しても特許を認める、という方向に向かうのか、どちらでしょうか。

現時点では判断は難しいので、私たちのような治療法の研究者としては、治療法に関する特許もできるだけ自国で出願しておき、最低限、アメリカでは特許を取得する、というストラテジーが良いと思います。今後の状況によっては、日本やヨーロッパが治療法に関しても特許を認めるという方向に向かう可能性もあり、審査の時期によっては、さかのぼって適用される場合もないわけではありません。

<以上、2001年5月21日b付けのWEBサイトより再掲>

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金融資産を守る方法

2010年5月7日

「自分の金融資産を守るために国民が取りうる手段は次の3つです。 1.国際分散投資 2.不動産投資など(金融商品以外のモノ) 3.タンス預金」と、O氏がメール配信で述べられている。

本当にそうであろうか。以下に私の考えを述べてみたい。

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他国への投資、これは預金封鎖されて価値がゼロになる危険がある。たとえば故国日本とイギリス・アメリカとが戦争・対立する、などという場合には、日本国籍の人の英米での銀行預金口座は封鎖されるのは当然だろう。故国からは、敵国に投資したことは、故国に対する裏切り行為であったとも言われよう。

しかし、私は、預金封鎖されて損をする危険があるから良くない、ということではないと思う。日本人が、たとえばイギリスの銀行にお金を預けるとする。これも、預金あるいは「貯金」というのが普通かもしれないが、一種の投資ともいえる。イギリスに投資するのは、イギリスに投資すれば儲かるあるいは安全であるという理由の人々も多いであろうが、明確に目的として意識しているか否かにかかわらず、基本的にはあるいは経済学的には、イギリスという国あるいはイギリスという国の行うことに賛成して投資しているという意思表明になっている。

このような観点から、私は戦争をする国には投資してはならないと思う。私の投資が戦争を奨励する投資ではないとしても、結果として当該国の戦争遂行に役立つ・後方支援するお金の使い方になってしまうからだ。

このような純粋な考え方から、わたしはカントのお金の使い方に賛成できない。大学教授の彼は、イギリスに投資して年利7%の高い配当を得ていたという。おかげで彼の晩年は貧乏な大学の先生という境遇からは若干改善され、質素ながらも落ち着いて午後のお茶を楽しめる暮らしであったとのことである。

7つの海を支配する大英帝国の興隆期にイギリスに投資することは、経済学的には賢いことだし、カントの貧しい生い立ちと経済的に恵まれない大学教授という職業を考えると、後世の人々が彼の投資行動という局所的な面を非難することは決してフェアではないと承知の上で、あえて私見を述べさせていただく。すなわち、奴隷やアヘンの貿易、アヘン戦争やセポイの乱などの戦争・武力行使など17世紀からのイギリスの行いの歴史を簡単に思い浮かべただけでも、私はカントにはイギリスへ投資して欲しくなかった。

基本的には、庶民のなけなしのお金、たとえば老後の生活資金のための蓄えなど、失ってはならないお金は、他国に投資すべきではなく、自分の国に、まずは「貯蓄」すべきである。

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おカネの価値が不安定となることが予想される時期に、金(きん、Au)や不動産など金融商品以外のモノを買うというのは、考え方としては正しい。

実際、最近の中国はこれから米ドルが不安定になるのを見越して、鉱物資源などのモノをどんどん買って投資していると報道されている。抑えられてきた金(きん)の価格も最近では高値を更新するようになってきた。

しかし、普通の国民として、非常時のために金(きん)を購入して自宅に持っておく、などということは現実的ではない。購入証明書の紙切れをもらって本物をあずけておくなどという形態では、非常時のために金を買ったということにならない場合が多々考えられる。その証明書はやはり「金融商品」のようなものである。いつ兌換不能になるかは、普通の人には予測できない。

いわゆる不動産「投資」も、庶民の手の届くものではない。親から受け継いだりするのではなくてゼロから始めて自分の力で、たとえば東京に小さな土地と一棟のビルを購入して資産運用して危険を伴わないような「普通の国民」が、どれだけいることであろうか。普通の人にも手が届くのは、いわゆる不動産「投資」ではない。

不動産「投資」と少し似ていて、意味合いが大きく異なるものに、小さな「兼業大家さん」がある。これは、不動産「投資」ではなく、貯蓄の別形態と考えられる。

自分が額に汗して稼いだお金で、老後の蓄えのためにわずかな貯金の代わりとして、値のこなれた中古(20-30年ぐらい前の建物になろう)マンションの購入と賃貸運用(いわゆる小さな兼業大家さん)という形である。これであれば、地域社会の中でお金を上手に回すことに貢献できる。仲間・地域の人たちのために良質の住居を提供することにお金を役立てることができる。人々の暮らしの質の維持ないし向上にもつながりながら、お金が働いてくれている。老後の生活のための蓄えとして、いわゆる金融商品と比べて比較的安全性の高いものであると思う。

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「タンス預金」に到っては、無意味である。O氏はいったい何を想定してこのようなことを推奨しているのであろうか。貯蔵価値としてのお金が、「タンス預金」ということであろうが、お金の本来の働きは交換価値としての働きである。世に出回って使われない限り、お金は、交換価値すなわち貨幣としての役割を果たしてくれない。しばらくお金に冬眠させて、お金の価値が高まったところを見計らって目覚めさせて働いてもらおう、というような発想のようだが、現実には眠っている間にお金の価値が高まる保証がない。皆がタンス預金をすればお金が足りなくなって不況が深まる。社会が不安定になり、福祉は削減され、戦争の危険も高まる。世の不景気をさらに助長するようなアドバイスは受け入れるわけにはゆかない。

また、タンス預金を何時とりだしてきて使えばよいか、その潮時を適切に判断することは、普通の人には無理である。世の推移がどのように進むか上手に予言できる人(すなわち普通の国民でない人)でない限り、タンス預金では自分の「金融資産」を守ることに全くつながっていないのである。

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以上、2010年5月7日付けWEBページより再掲

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グローバル企業について

2010年5月6日

昔に何の気なしに書いてしまったことで、今になると訂正ないしせめて注釈の書き添えはしたいと思うような記事も多い。

たとえば、今もなお冬場に着ているアンダーウェアのサーマスタット、上下ともに恐らく8,9シーズンは愛用している。当時の私にとって、下着としては驚くほど値段高価なものであった。着てみるととても暖かく汗も良く乾いて優れものだ。高機能素材の繊維製品として非常に感心したので、WEB記事に書いたこともある。その際、このウェアのタグに記載されているメードインUSAとデュポン社の名前を発見し、これをそのまま引用し、こんな良い新素材製品を開発したアメリカの会社の貢献をほめたように思う。

言い訳を言わせてもらうならば、その文章を書いたときに、デュポン社の沿革全体を褒めたわけではなく、この新素材製品とそれにまつわる局所としての会社繊維部門を褒めたのである。

8,9シーズンは愛用している間にはさすがに私のウェアも恥ずかしいほどの毛玉だらけになってしまった。ピッチャーにたとえれば、控えにまわされることも多くなって出番が少なく、登板回数としては最近のメリノウール下着たちに全く太刀打ちできなくなっている。

一方で、8,9年も勉強も続けていると、デュポン社というコングロマリット企業の名前が歴史の諸処に顔を出し、衣類やテフロン製品を作っている平和なだけの企業ではないことを思い知らされる。WEB記事に書いてしまった責任上、その都度、いやでも心穏やかにはなれなくなる。過去の無知な気楽な自分が残念で仕方がない。

デュポン社は、広島長崎に落とされた原爆の開発製造計画・マンハッタン計画の取り引き代表業者(窓口会社)であったという。デュポン社を通じて、原爆開発の技術・原料調達・施設管理などが、スタンダード石油・ウェスティングハウス・ケロッグ・ユニオンカーバイドなどへ事業分担されたということである。ルーズベルト大統領以下のアメリカ首脳部は1943年の時点で既に世界で最初の原爆投下の相手を日本に決めていたとの公文書が一時期公開されたという。

詳細は簡単には思い出すことができないが、デュポン家はアメリカを代表する名家の血流である。そうであるならば、恐らく、藤永茂さんが問いかける「アメリカの二つの原罪」の多くの責任をこのデュポン家の人々も背負っているに違いない。

ナオミ・クラインの「ノーロゴ」を勉強してからは、コーラを気楽に飲むことも、地球人の私たちとしては、私たちの仲間のことを考えれば、ホントは簡単にはできない・してはならないかもしれないことを知った。

パレスチナの人々の苦しみを書物で読んで知ってからは、購入しようとしている製品や部品の製造者や販売者がイスラエル支援企業か否かは簡単に看過できる問題ではなくなった。

そんな経過がこの8,9年の間に私の中を過ぎて行き・今も留まっている。だから、デュポン社のことを何も知らずにいた過去の自分が手放しで新素材繊維礼賛したことを、今の私は大変に愚かしいことと思う。

また、一方で、上記のような断片的な知識だけからではデュポン社を非難することが適切だとも思わない。デュポン社というグローバル企業がひとりでいくら頑張っても原爆を広島に落とすことはできない。

今の私はもう少し時間をかけて、グローバル企業のことも巨大コングロマリットのことも含めて、歴史と現在をしっかりと勉強し、これからの生き方暮らし方の軌道修正へとつなげてゆきたいと思っている。

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以上、2010年5月6日付けWEBページより再掲

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企業献金の全面禁止について

 

2010年5月5日
今期の国会では企業による政治献金禁止に関しては十分な議論がなされなかったようである。与党の民主党内でも意見の一致をみていないようだ。一朝一夕に結論が出る問題ではないとは承知の上で、企業献金の全面禁止に関して広く深く論議していただきたいと思う。

企業献金に関して単純に考えてみたい。

企業のお金の使用目的から考えて、単純にフリーハンドで使途自由のお金が政党に献じられる場合というのは、非常に稀な限定条件がいくつも付く場合以外には考えられない。もしそのような献金が通常の株式会社などからなされた場合には、厳密に突きつめれば「背任行為」に当たる可能性が高いであろう。現実にはあり得ない話である。一方、企業サイドから明確な目的が付いて、政党ないし政治家サイドから直截に答えられる場合には、献金というよりは贈収賄に相当することは明らかである。現実の企業による政治献金は、使途自由のお金(0%)から明確な目的が付いてくるお金(100%)までの間の(数十%ぐらいの)数字に落ち着くのではなかろうか。0でもあり得ないし、100でもあり得ない、まあ通常は20から40ぐらいの感じか。もちろん、送金の際にこの数字が金額とともに印刷されて振り込まれるわけではない。つまり、暗黙の了解の世界である。よって、献金する側と受け取る政党や政治家側でこの数字が大きく食い違う場合も多いであろう。しかし、企業サイドの数字がゼロに近ければ背任ないし放漫経営の誹りは免れまい。政治家側の数字がゼロに限りなく近いということも現実的にはなかなか望めないことであろう。

企業による政治献金を禁止して、個人による政治献金のみを許可ないし奨励する、という政治体制を考えてみよう。

たとえば、アメリカの大統領選挙を考えてみれば、現在の大統領選挙とは全く異質な候補者選びとなる。お祭りのような華やかなパーティはあり得ない。持ち寄りに近い質素な集まりになるだろう。残念ながら、現在のアメリカ社会とは全く異質の社会を前提にしなければ、そのようなかたちの大統領選挙を想定することは難しい。

ただここで少し問題なのは、大金持ちからの巨額の個人献金をどうするかである。個人献金の額に関しては、常識的な線(これはかなり低い線である必要がある)に上限を設けなければ、企業献金と同様の弊害を生じる。それでもなお、献金できる個人の層と、献金することも生活を圧迫する個人の層とで、多少の差(集まれば大きな差)が生じることは避けられず、この辺りも、しっかり考慮されなければならないであろう。

日本の場合でも企業による政治献金を禁止するということが理論的には可能である。が、これは、日本の政治の主体が誰であるかという根本的な意味と結びついており、冒頭にも述べたように、広く深く議論する必要がある。企業は誰のためのものかというような難しい問いとも関連している。

もう一つ、忘れてはならないのは、現在のマスコミが抱える問題である。日本の大手マスコミのようにスポンサー企業からの広告に大きく依存する体質では、先ほどの企業献金と政治の問題と同じで、スポンサー企業寄りの報道・オピニオンに偏るのは当然である。企業献金を本質的に批判する論調が大手・主流のマスコミから提出されることはあり得ない。国民が自分たちが主体となって意見を交換する場として、主流のマスコミではない、新しい形のコミュニケーションの場(メディア)が必要である。国民主権の立場で企業献金に関して議論するためには、国民主体のメディアを用いることが必須の前提となろう。

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2010年5月5日付けWEBページより再掲

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