トルストイ 生きることの意味を求めて

2017年1月4日 水曜日 曇り・雪

八島雅彦 トルストイ 人と思想162 清水書院 1998年

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トルストイ 生きることの意味を求めて
神への奉仕とは何かーーーそれは価値の尺度をただ神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならない。

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最初のヨーロッパ旅行
・・どちらの思い出においても、トルストイの脳裏に刻みつけられたものは、文明と呼ばれるものが持っている残酷で野蛮な側面であった。・・・(中略)・・・ そこで彼は生まれて初めてギロチンによる死刑執行を目撃したのだった。その衝撃は信じがたいものであった。パリの魅力はすっかり色あせてしまった。・・このヨーロッパ旅行の印象は結局パリで見たギロチンに集約されるものだった。
 犯罪人を罰として八つ裂きにすることは残酷なことではあるが、理解できることだ、とトルストイには思われた。だが、八つ裂きにするのは野蛮だという理由でギロチンが開発されるという文明の進み方が、トルストイには理解できなかったし、理解したくもないことだったのである。

祖国ロシアの姿とその進むべき道
・・けれども、トルストイはこの国でやっていこうと思った。ここを足場として、ここから出発しようと考えた。変革は必要であるが、それはヨーロッパの真似ごとをすることではないということがヨーロッパから帰ったトルストイにはもうはっきりしていた。(同書、p35-36)

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生きることの意味を求めて
・・彼ら(農民や巡礼や行商人たち)の暮らしは信じがたいほどに貧しかった。しかし、彼らは快活に生きており、その快活さは真実に気づいていないための快活さではなく、反対に、トルストイの知らない真実を知っているがゆえの快活さであるようにトルストイには思われた。・・こうしてトルストイは生きるために、生きていける状態を取り戻すために、民衆と一体になる生活へと入っていったのだった。(八島、同書、p62)

信仰の意味
・・そのどこにも楽しみらしいものの見当たらない暮らしの中で、しかし彼らは決して善良さを失うことがなく、死をも静かに受け入れるのだった。彼らの生活を支えていたのは無知でも、根拠のないオプティミズムでもなく、ほかならぬ神に対する信仰だったのである。神にはこうなるのがよいのだと、彼らは労働も不幸も災難も、そして自分たちの死さえも受け入れた。神に必要なことであってみれば、それらを受け入れることは喜びだったのである。・・・(中略)・・・ 民衆の信仰が教会に由来していることは否定できなかったが、教会の求める信仰は、民衆の信仰とは明らかに異なっていた。(八島、同書、p62-63)

生活の回復
そんなトルストイの中に、いつしか、信仰とは神を求めようとすることにほかならないのではないかという考えが生まれ、それが次第に固まってきた。神を求め続けること、それこそが生きることなのではないか、と。(八島、同書、p63)

・・神を求めることが信仰であるとすれば、信仰の最大の妨げとなっているのが、ほかならぬ教会であるように思われてきたのである。しかも、それは偶然そうなっているのではなく、教会は故意に本来あるべき信仰を妨げているのだった。(同、p64)

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では、自分で考えた人間が本当の答えを知りたいと思うのはなぜだろう。それは自分の目と頭を信じているからなのだ。・・自分の目と頭に対する信頼が大きければ大きいほど、本当の答えを知りたいという欲求も強くなる。そこに創造の可能性も開けてくるのである。・・大切なのは、自分の目を信じることのできる人間、自分の思考を信頼できる人間をつくることなのであり、それこそがトルストイの教育の最終目標になっていると考えられるのである。(同、p112)

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もし彼らに本当の信仰があるなら、彼らは、信仰とは生命の意味であり、人それぞれが神との間に確立する関係であって、それゆえ信仰は教えられないこと、教えられるのは信仰の欺瞞だけであることを知っているはずである。(同、p124)

欺瞞の源泉
・・この逸脱はキリストの使徒たち、なかでも教育好きのパウロの時代から始まっている。そしてキリスト教が広まれば広まるほど、教義はますます逸脱していき、キリストによってあれほどきっぱりと否定を表明されている、ほかならぬ外面的敬神と教育活動の方法をわがものとしていくのである。(同書、p125-126)

事業としての教会
コンスタンティヌスとニカイア公会議以降、教会は事業に、そして欺瞞の事業になっていくのである。(同、p126) 始まりは悪であったーーー憎しみ、人間の高慢、アリウス(補註##)その他に対する敵意であった。そして、もう一つの、さらに大きな悪がキリスト教徒と権力との統一である。権力、すなわち・・コンスタンティヌスがキリスト教を受け入れ、・・公会議によって唯一正当なキリスト教信仰を確立するのである。(同書、p126-127)

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人間の務め
みなさんの心の主要な願望が自分自身がよくなることであるときには自分自身を信じることだ。私が言うのは完成ということではない。なぜなら、自己完成ということには、何か自愛心を満足させるような個人的なものがあるからだ。私が言うのは、われわれに生命を与えた、その神の欲するものになることであり、われわれの中に埋め込まれている、神に似た根源を自らのうちに開示して、百姓たちが言うように神に従って生きるということなのだ。
 自分自身を信じ、すべての力を一つのこと、自分自身の中に神を現すということに向けて生きることだ。そうすれば、みなさんは、自分の幸福のためにも、世界全体の幸福のためにも、自分にできることはすべてすることになる。神の王国とその真実を探せば、あとはひとりでにうまくいくものだ。そう、みなさんの心の中に、自分は神から生まれたものだという意識の光が最初に燃え出すきわめて重大なときには、自分自身を信じることだ。その光を消すことなく、全力で守り、燃え上がらせるようにすることだ。このことにのみ、この光を燃え上がらせることにのみ、あらゆる人の人生の唯一の偉大で喜ばしい意味があるのだから。(トルストイ「自分自身を信じること」(1906-1907)、同、p193-194)

神への奉仕
「神の国は汝らのうちにあり」で、トルストイは「人類」という観念に奉仕するのは誤りであるとはっきり述べている。それは漠然とした観念であり、実際問題として、時間的にも空間的にも人類全体を把握することができない以上、「人類」という観念の前では、人はどうしても恣意的な行動しかとることができない。だから、「人類」に対してではなく、「神」に奉仕せよとトルストイは説くのである。「人類」に対する奉仕がしばしば人間同士の争いを引き起こしかねないのに対し、神への奉仕は決して人類に害悪を及ぼすことはなく、結果的に人類に幸福をもたらすことになるのだ、と。そう、人類の幸福は結果であって目的であってはならないのだ。
 では、神への奉仕とは何かーーーそれは価値の尺度をただ神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならない。一人の人間には結局それ以上のことはできないし、それ以外のことは求められていない。だから、ただ神の声としての自分自身の内なる善の声に耳を傾けなさいーーーこれが若者たちに対するトルストイの最後のメッセージだったのである。(同、p197)

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補註## アリウス ウィキペディアによると・・・
アリウス(Arius、250年 – 336年)は、アレクサンドリアの司祭で、古代のキリスト教アリウス主義の提唱者。325年、第1ニカイア公会議にてコンスタンティヌス1世はアリウスの広めた教えを異端とし、アリウス及びその同調者の破門を正式に決定した。その後、ニコメディアのエウセビオスの仲裁などにより復帰を許されたが、コンスタンティノープルで336年死亡した。
 アリウスは、子なるイエス・キリストが生まれた者であれば父なる神と同質ではありえないとするユダヤ教同様の厳格な唯一神教(ヘテロウシオス)を説いたのに対し、アタナシオスらニカイア派はキリストの誕生を人間のそれと同一に考えるべきではないと、三位一体論を説いた。
325年のニカイア公会議でアリウスの教えは異端とされ、その際採択された『ニカイア信条』により神である父と子であるキリストは同質であることが確認された。一応の決着は見られたが、その教えを信奉するアリウス派は多く、その死後もアノモイオス派、ホモイオス派、ホモイウシオス派の三派に分裂しつつも、勢力を保った。
しかし381年の第1コンスタンティノポリス公会議において、ニカイア信条が有効であることが再確認され、さらに451年に開催されたカルケドン公会議において再度異端であることが確認された。(以上、ウィキペディアより引用)

補註 アリウス派 ウィキペディアによると・・
アリウス派の主張内容については、「イエス・キリストの神性を否定した」とも、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、三位一体説を退けた」とも言われる。
 ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙したニカイア派(アタナシオス派)も、イエスの神性と人性の両方を認めている。さらに、「神性を否定した」については、先述のように「神的であるとは言おうとしていた」と評される事もあり、議論が分かれる。
 なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくはラテン語から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのはアレクサンドリアの主教アレクサンドロスである。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派はニカイア信条から名をとって「ニカイア派」などと呼ばれる。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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アッシジのフランチェスコ

2017年1月2日 月曜日 曇り

川下勝 アッシジのフランチェスコ 人と思想184 清水書院 2004年

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尊敬と協調 回教徒や非キリスト教徒のもとに行く兄弟について
・・その宣教を「霊的に生きる」ことであると定義している。しかも、語ることよりも生きることが優先されている。  かれの考えに従えば、「霊的に」という表現は、自己中心的な考えや生き方から脱却することを意味する。・・さらに、一切の口論や争いをすることなく、信条を異にする人々との協調の中で生きなければならず、そのように生活した上で、もし神の望みにかなっていると考えた場合には、キリストの教えを伝えるように、と説くのである。  この短い文章には、フランチェスコの他宗教とその信徒たちへの深い尊敬とかれらと平和のうちに生きようという強い願望が現れている。(川下、同書、p99)

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物質軽視と肉体軽視 vs フランチェスコの自然とのかかわり
キリスト教の中に根強く残ったプラトン主義的二元論の流れと自然を戦いの相手とみる傾向は、中世キリスト教の中で、無意識のうちに、自然、物質、肉体を軽視し、敵視する土壌を作っていったのである。・・フランチェスコの小鳥への説教や狼との対話の逸話は、自然を悪としてではなく、神が創造した良いものとして捉えたかれの自然観を、象徴的に表しているといえよう。(川下、同書、p116)

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償いの兄弟・姉妹の会には、どのような階層の人でも入ることができた。ここにも、フランチェスコが大切にしていた「すべて兄弟である」という理念が生きていた。・・この会は、歴史の経過とともに世界の各地で設立されることになる。会員には、十字軍従軍中に死去したフランスのルイ王やラファエロ、ミケランジェロ、ムリリョ、コロンブス、また近世ではヴォルタ、パレストリーナ(補註*)、リストなどのような人々がいる。(川下、同書、p129-130)

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クリスマス、キリスト降誕のミサ
クリスマスのミサをこのように写実的に捧げる習慣は当時すでにあったことが知られている。この習慣が世界的な広がりを持つようになるのは、グレッチオでの深夜ミサからであろう。フランチェスコの弟子たちは、キリストの言葉を携えて、世界各地に赴くが、かれらは自分たちの師父にならってこの心温かい習慣を広めたのである。(川下、同書、p135)

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人々を魅了するもの
・・この有能な弟子に、それは私が誰よりも罪深く、人間の中で一番みじめだからだよ、とフランチェスコは答えた。(川下、同書、p142)

補註 フランチェスコ・・キリスト教史上で最も魅力的で、しかし(この本で伝記を読んだ程度では)私には理解できていない人・・これからもう少し踏み込んでいきたい。

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ルネッサンス以降、十九世紀までは、絵画の世界以外では、フランチェスコは重要視されなくなる。ヨーロッパにおける宗教改革に伴うキリスト教の分裂は大きな悲劇をもたらすことになる。(補註##)(川下、同書、p143)・・ 十八世紀になるとフランチェスコに対する興味が蘇り始め、十九世紀には文学の世界で取り上げられるようになる。特にドイツとフランスでは顕著であった。またカトリック教会と距離を置いていた学者や文学者の間でフランチェスコの研究が盛んになったことは興味深い。フランスのエルネスト・ルナン、ポール・サバティエ、ドイツのヨゼフ・ゲレス、カール・フォン・ハーゼなどはその代表的な人々である。(同、p144-145)

補註## フランチェスコの徳が及ぶことなく、300年後には激しい宗教改革戦争と世界侵略の嵐へと突入していくのはなぜか。

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補註 Question
巻末の年表によると・・
フランチェスコ、エジプト・パレスティナ・シリアへ伝道に出かける(1219-1220)、とある。この伝道は具体的にどのようなものであったのだろうか。フランチェスコはどのように生きたのであろうか。

補註 Question 
十字軍について調べておきたい。

補註 Question
巻末の年表によると・・フランチェスコ、1226年10月3日、ポルチウンクラで死去、10月4日、聖ジョルジョ教会に埋葬される。1230年、聖フランチェスコ大聖堂の建立、フランチェスコの遺骸、大聖堂に移される、とある。しかし、写真で見ると、聖フランチェスコ大聖堂は石造りの巨大な建築で、完成までには少なくとも数十年から百年はかかりそうな建物である。従って、当該年表の記載には若干の修正ないし注釈が必要であるかもしれない。
ウィキペディアによると・・・サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)は、1228年に教皇グレゴリウス9世によって建築が始まり、1253年に一応の完成をみたと言われている。・・その後、何度も改修が行われて現在の姿になった。聖堂は、町の北西の斜面の上に建ち、斜面を有効に利用するため建物は上下二段に分かれている。上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式・・とのこと。

フランチェスコの信仰生活のスタートは、教会の修復から始められたのであるが、たとえばこの聖フランチェスコ大聖堂など巨大な教会施設などの新規建立について、フランチェスコならどのように受けとめたのであろうか。あるいは、取り組んだのであろうか。

補註 Question
古代の建築に関して、技術面(工学・安全設計)、そして経済(財政・収支)を含めて、総合的に調べておきたい。特に経済に関しては、富(財)がどのような流れで流れ込んだか、どのようなひずみを生んだか(生まなかったか)など、ミクロではなくセミ・グローバルな観点から理解したい。

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補註* パレストリーナは誰?
・ヴォルタ(18世紀後半-19世紀)とリスト(19世紀)に挟まれて記載されているパレストリーナなる人物は、文脈上からは、19世紀の人物と思われる。従って、ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年?-1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家(16世紀)ーーーとは違う人物のようである。有名人のようだが、誰を指しているのか不明である。
・ アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ヴォルタ伯爵(Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta、1745年2月18日 – 1827年3月5日)。
・ フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Liszt、ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 – 1886年7月31日)。

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晩年の杜甫の放浪:人間存在の問題とその抒情

2016年11月23日 水曜日 晴れ

鈴木修次 杜甫 人と思想57 清水書院 1980年

杜甫芸術完成への旅
五四歳の五月、家族をともなって草堂を離れ、以後水上で死去するにいたるまで六年ほど、杜甫は人生最後の放浪の旅に出たのであるが、なぜそうした行動をとったかについては、安史の乱がおさまった時の五二歳の詩、「官軍河南・河北を収むるを聞く」と題する七律のおわりに、・・「・・便(すなわ)ち襄陽に下りて 洛陽に向かわん」と説明されていることから想像できる。・・成都から洛陽に向かうには、万里橋から乗船して揚子江を下り、三峡を経て水路を襄陽までとり、そのあと陸路をまっすぐ北にたどるほかはない。そのコースを利用して、杜甫は洛陽にもどろうとしたのであった。  しかしながら杜甫は、ついに洛陽にもどることなく、洞庭湖のほとりの潭(たん)州と岳州(がくしゅう)との中間あたりの水上で、五九歳のいのちをおえてしまった。なぜそうした事態になってしまったのであろうか。それはもっぱら、その日ぐらしの生活に追われていたので、まとまった路銀が入手できなかったからであった。それにまた、健康の問題もあった。・・・(中略)・・・ 杜甫は、病身と貧苦にあえぎながらも、しかしみずからに課した詩作をやめようとはせず、苦しい状況がつのればつのるほど、いちだんとほりの深い、人間存在そのものの孤独さを訴える、みごとな杜甫芸術を完成させていった。(鈴木、同書、p176-177)

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・・・最後の放浪の旅において作者は、自分の過去をふりかえって長篇の「人生の思い出」の詩を作るとともに、人間存在の問題とその抒情という、もっとも本質的な課題に、まっ正直に、ひたむきに、とりくんでいった。
 晩年の杜甫の放浪は、大まかにいって、雲安の時代(54-55歳)、夔(き)州の時代(55-57歳)、洞庭湖付近の放浪時代(57-59歳)の三期に分けて考えることができる。(鈴木、同書、p177-178)

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雲安(四川省雲陽県)の時代

忠州では、厳武の柩が揚子江を下って故郷の華陰県(長安の近くの地)に帰葬されるのを、悲しい思いで見送った。哭嚴僕射歸櫬「厳僕射(げんぼくや)の帰櫬(きしん)を哭す」と題する五言律詩は、その時のもの。・・「帰櫬」、故郷に帰ってゆく柩(ひつぎ)。杜甫はその詩の結びにうたった。
  一哀三峽暮,遺後見君情
  一哀(いちあい) 三峽暮る,後に遺されて 君が情を見る
 せいいっぱいの悲しみをたむけるうちに、しだいに三峡は暮れていった。あとにのこされたわが身、しみじみと厳君のありし日の友情が思いだされる。「一哀三峡暮る」とは、簡潔な表現であるが、むだのないみごとな表現である。 

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補注 原文を「唐詩宋詞網」http://tssc.timetw.com/ のウェブサイトより引用する
http://tssc.timetw.com/10566.html

哭嚴僕射歸櫬  杜甫

素幔隨流水,歸舟返舊京。老親如宿昔,部曲異平生。

風送蛟龍雨,天長驃騎營。一哀三峽暮,遺後見君情。

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「旅夜書懐」の詩
雲安にたどりつくまでの江上の作である「旅夜懐(おもい)を書す」

星垂平野闊,
月湧大江流。

星垂れて 平野闊(ひろ)く,
月湧(わ)いて 大江(たいこう)流る。

星はその光芒を平野にたれて、その平野はかぎりなく広がり、月は大江(たいこう)から湧き出たごとく金波をゆらめかせて、その大江は無限のかなたに流れてゆくという情景である。・・「平野」「大江」ということばは、星が垂れる場所、月が湧き出る場所として、補語として用いるとともに、次にはそれを「闊(ひら)く」「流る」の主語として転換させている。有限の文字数の定型詩において、ひとつのことばを両用のはたらきにおいて極度に圧縮させるという表現のくふう、そのくふうは以後の杜甫の詩に時折示される技巧であるが、まずこの詩において、こころみられた。
 この対句は、・・李白の若い時期の句、
   山は平野に随(したが)いて尽き
   江は大荒(たいこう)に入りて流る
を下敷きにしているかも知れないが、句の凝縮度や対句の緻密さにおいて、杜甫のこの対句の方がはるかにすぐれている。杜甫はこのとき、スケールの大きい詩人であった李白まで吸収してしまったということができよう。(鈴木、同書、p180-181)

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名豈文章著,
官應老病休。

名は豈(あ)に 文章もて著(あら)われんや,
官は應(まさ)に 老病にて休(や)むべし。

自分の名声は、文学などによって示されるべきものではない。官僚貴族のはしくれとして生まれ、儒者であろうことを志し続けた自分には、政治の世界で活躍することこそもっとも望ましい方向なのであるが、しかしもう年老いて病気がちな身、官途につくことは、おそらくもうやめにせねばなるまい。「文章」、今日のことばでいうならば文学にあたる、「応」、「まさに・・すべし」と日本では読みならわしているが、推量をあらわすことばである。(鈴木、同書、p181)

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旅夜書懷  杜甫

細草微風岸,
危檣獨夜舟。
星垂平野闊,
月湧大江流。
名豈文章著,
官應老病休。
飄飄何所似,
天地一沙鴎。

補注 原文は碇豊長さんのサイトより引用
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/rs288.htm

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紅葉する老年:これでも私は学ぶ Aún aprendo

2016年7月29日 金曜日 朝から降り続く強い雨

武藤洋二 紅葉する老年 旅人木喰から家出人トルストイまで みすず書房 2015年

命の得体の知れない力、命の個性の強さ、命と命との想像を絶する違いこそは、人生の青葉の時期でも紅葉の時期でも万人の人生への宇宙からの贈り物である。(武藤、同書、p2)

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Aún aprendo フランシス・ゴヤ これでも私は学ぶ 1826年 プラド美術館(武藤、同書、p15)
学ぶという原初の一歩からずれないように手に力をこめて立っている。(p14)

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反逆者(Rebel)トルストイ

2016年7月29日 金曜日 朝から降り続く強い雨

武藤洋二 紅葉する老年 旅人木喰から家出人トルストイまで みすず書房 2015年

死ぬまで反逆者(Rebel)であり続けたトルストイ

トルストイは一つの輪である。それは小さな玉のつらなりである。それぞれの玉は、反権力、非暴力、土地私有反対、不戦反戦等々の立場をになっている。それらはたがいに補いあうと同時に衝突し両立しない場合がある。・・・(中略)・・・宗教的安心、仏教の悟りに近いものを最終期のトルストイに見ようとするのは、死ぬまで反逆者であり続けた者を、安らかな死に場所を求めて家を出たありきたりの高齢者にしてしまう。  トルストイの輪は死ぬまで振動し、うわごとの中でも輪が作動している。(同書、p240)  トルストイの土地私有反対を権力否定と切り離せば、彼が長年主張し続けた自由、寛容、国家への服従拒否、処刑と暴力と強制の廃止などは消えてしまい、土地私有制廃止が土地国有制という鬼子、絶対的権力支配を生みだす。処刑、暴力、強制、国家権力の否定否認のこのつらなり、この輪の中でこそトルストイの土地私有反対が意味をもつ。(同書、p242)

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家出はソフィアの存在が原因ではなく、トルストイ内部の政治的決着である。この激変なしにはトルストイの言動の体系は「言葉、言葉、言葉」(ハムレット)になって空中分解する。政治的破綻のふちで、ソフィヤはトルストイに家出決行のきっかけを与えてくれた。(武藤、同書、p251)

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人生の紅葉期こそ陽気さが必要である。しかし、醜、弱、衰ぬきの紅葉期は非自然の作り話である。だから小さな本書にも、陽光が照っている所もあれば鬼火が燃えているところもある。ただ地底に陽気さが満ちていればいい。(武藤、同書、p259)

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