catastrophe

ツナミの小形而上学

ジャン・ピエール・デュピュイ ツナミの小形而上学 嶋崎正樹訳 岩波書店2011年7月(原著は2005年)

2015年1月24日 快晴 「ツナミの小形而上学」を読み始める。

私たちは今、準主体ともいうべき「人類」の登場を体験している。その宿命が自己破壊にあることを、おぼろげながら理解し始めてもいる。その自己破壊を回避せよという、絶対命令が突きつけられている。(ibid、p9)

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2015年1月27日 火曜日 曇り

恐怖に立ち向かおうとすると、道徳哲学はこの種のアナロジーを立てることくらいしかできなくなってしまう。なぜかといえば、その場合道徳哲学は、論理の整合性以外に、おのれの依って立つものがほとんどなくなってしまうからだ。一方でこの最低限の整合性の要請だけでも、核の選択を退けるには十分であったはずだ。だがそうはならなかった。それはなぜだろうか? (ibid, p94)

(1)ではなぜ実際に広島に原爆を投下したのか、またさらに気がかりな疑問として、長崎にも投下するという、不名誉なまでに条理を逸した執念を見せたのはなぜか? (2)「道徳」の衣は本来は全く逆に、正当化としては最悪のものであったはずなのに、なぜそれが言い訳として通用しえたのか? (ibid, p94)

九日、それは彼(ギュンター・アンダース)のいう「ナガサキ・シンドローム」が生じた日だ。  つまり、ひとたび起きてしまった破局は、現実のなかに不可能なことを招来し、必ずや地震と同じような余震をもたらすのである。その日、歴史は「形骸化」した。人類は自分自身をも破壊できるようになり、たとえ全面的な軍縮、世界の全面的な核廃絶があろうとも、もはやその「否定的な全能の力」を手放すことはまったくできなくなった。黙示録の世界は私たちの未来に運命として刻まれてしまった。私たちにできるのはせいぜい、その期日を無限に先延ばしすることぐらいでしかない。私たちは執行猶予の状態に置かれたのだ。1945年の夏、私たちは、これまで存在したいっさいのものの「二度目の死」、「猶予」期間(die Frist)に突入したのだ。過去の意味はこれからの行動にかかっている以上、未来を廃棄すること、プログラムされたその終焉が意味するのは、過去にはもはや意味がなくなるということではなく、過去にはまったく意味がなかったことになってしまっているだろうということだ。私(デュピュイ)が本書の冒頭で示したノアの洪水の寓話(ibid, pp4-5; ibid 原注1, p16 も参照)は、そのことを見事に物語っている。(ibid, p96)

ヒロシマとナガサキの破壊の合理性と道徳性について問うこと、それは相変わらず核兵器を、目的のために用いる手段として扱うことにほかならない。・・・原爆は、その爆弾に与えられる、あるいは見出すことができる、あらゆる目的を凌駕してしまう。・・・なぜ原爆が用いられたのだろうか?・・・なぜ原爆を使うことの道徳的な恐ろしさは見過ごされたのか?・・・なんらかの閾を超えてしまうと、私たちの行為の及ぶ力は、私たちの感じる力、想像する力を際限なく超え出てしまうのである。元には戻らないこの溝を、ギュンター・アンダースは「プロメテウス的落差」と名づけている。(ibid、p96)

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アンダースを憤慨させたのは、(ヤスパースが)宗教的語彙に頼って、名状しがたい忌むべき行為を覆い隠したことである。とはいえ、ラディカルな無神論者だったアンダースは、それでもなおある種の超越性の存在は認めている。「私が宗教的領域として認識しているものに、肯定的な部分などひとつもない。ただ、あらゆる人間の節度を超越する人間の行為の恐ろしさ、いかなる神だろうと阻止できないその恐ろしさだけは別である。」(ibid, p110)

供犠者、犠牲・神の混同が供犠の本性そのものをなしている。・・・神への供犠は、神の犠牲から派生した一つの形式にすぎないのだ。つまり、最初は「犠牲となるのはつねに神」だったのである。ユベールとモースはいう。「要するに、神がおのれ自身に捧げられていた」。(ユベールとモースの「供犠の本性と機能に関する試論」より、ibid, p111)

聖なるものとは人間の暴力が人間自身の外に置かれたものをいうと考えるならば、逆説は解消する。ユベールとモースのいう神を暴力に置き換えるだけで、彼らの記述になおも残る、神秘の後光に包まれているものを脱構築できるのだ。聖なるものへと物象化された暴力は、普通の暴力がその聖なるものに捧げる「捧げ物」を糧とする。暴力は象徴的・制度的な形式へとみずからを外在化することができる。儀式、神話、あるいは禁忌と義務の体系など、それらは暴力を二重の意味で閉じ込めて規制する。つまり、それらの形式は暴力から構成されながら、暴力の防波堤にもなるのである。アンダースの言う否定的超越は、まさしくこの図式に当てはまる。(ibid, p112)

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