culture & history

家の宗教として生きている沈黙の儒教

加地伸行 沈黙の宗教−−−儒教 ちくまライブラリー 1994年

2015年10月2日 金曜日 晴れ

 儒教は<家の宗教>である。各家庭にすでに存在している宗教である。ただ、儒教はみずから語ろうとはしない<沈黙の宗教>である。そのため誤解もされ、無視もされ、嫌われもし、古いもの、前時代のものという浅薄な切り棄てられ方をしている。
 果たしてそのようなものであろうか。儒教の持つ、数千年をしたたかに生きてきたすごみを人々は知らない。儒教は東北アジア人の心の奥底にあるものをつかみ出したからこそ、東北アジアにおいて、ずっと生き続けてきたのである。微動だにしていない。この<家の宗教として生きている沈黙の儒教>を、私は説き続けたい。(加地、同書、p95)

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最も宗教的な、宗教の本質は死生観なのである。死および死後の世界を語ることなのである。この<死および死後の世界を語ること>こそ宗教の根核であり、その他のことは、宗教が関わらなくとも担当できるものである。道徳論は仏教やキリスト教の立場から語らなくとも、他の領域たとえば倫理学や社会学や人生論などの立場からでも語れることであって、宗教の専有物ではない。
 いや、あえて言えば、仏教やキリスト教などの諸宗教は道徳を語りすぎている。信者に対して、もっと死生観を語るべきではないのか。人々が宗教に最も求めているのは、それなのであるから。(同書、p102)

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儒教の宗教性は東北アジア人の心の深層を流れ、しぶとく生き続けてきているのである。儒教の発生以来、数千年のスケールで生き続けて今日に至っている。この宗教性が母胎となって、その上を流れゆく歴史に向かって、あたかも周期的に噴出する温泉−−−間歇泉のように噴きあがってきては、その時代に応じた道徳の姿を現わす。そしてそれが儒教の表層となる。(加地、同書、p112−113)

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江戸時代においては指導的立場として実際に機能していた朱子学が、前述したように江戸時代とは歴史的・社会的・文化的に異なる現代において機能しないのは当然のことである。
 だからといって、「儒教が力を失いつつある」とは言えない。というのは、現代には現代に適合する儒教道徳があるのであり、現代社会に適応する新しい儒教道徳を創り出す努力もまた必要なのである。(加地、同書、p114)

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このように、漢代の神怪な雰囲気に包まれつつも、祖先崇拝の行事が家族において確実に受けつがれ、儒教の宗教性は、儒教の国教化(礼教の社会化、公化)が行われても、びくともしなかったのである。いや、儒教の宗教性を基礎にして、礼教の上昇化、礼教の上部構造化が成り立っていったのである。つぎの後漢時代が特にそれを推進することとなる。そして一方、宗教における祖先祭祀は、実際には、社会の特定宗教となることなく、各家族における慣習となっていったため、一般化されすぎ、いわゆる教団宗教(仏教や道教など)とはならなかったので、その宗教性が意識されにくかったのである。(加地伸行 儒教とは何か p151-152 中公新書 1990年)

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