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孔子の仁:克己復礼の実践を通じて、その内観の極致に見出そうとしたもの

2016年1月9日

白川、孔子伝、中公文庫、1991年(オリジナルは中公叢書1972年)

孔子のいう仁は、もとより「人を愛す(顔淵)」という一面もあるが、仁は孔子においては「一日己に克ち禮に復らば、天下仁に帰す(顔淵)」という、人間存在の根拠に関する絶対の自覚をいう語であった。「論語」の中に、仁を規定した語が他に一つもみえないのは、おそらくそれを表現しうる適当な方法がなかったからであろうと思われる。思想の極限のところに、そういうところがあるのであろう。その秘奥に参ずることは、もはや批判の限界をこえる。(白川、孔子伝、中公文庫、p182)

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 孔子においては、仁と義とは相並ぶものではない。義は当為であり、「義を見て為さざるは、勇なき(為政)」ものであるが、それは「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る(里仁)」というように、行為の基準に関するものであった。しかし仁は、人の存在の根拠に関している。ゆえに「人にして不仁ならば」、礼楽はその意義を失うのである。文化も価値も、ただ仁を根拠としてのみ存在する。
 墨家においては、義はまさに孔子のいう仁に近いものであった。それはあらゆる存在の、また価値の根拠であるが、天志によって与えられる。孔子が克己復礼の実践を通じて、その内観の極致に見出そうとしたものを、墨家は天志として、先験的なものにおきかえたのである。(白川、同書、p196)

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