culture & history

不道の道、不言の辯(ことば)、不仁の仁

2016年1月12日 火曜日

中嶋隆蔵 「荘子 俗中に俗を超える」中国の人と思想5 集英社 1984年

言葉はもともと立場によって意味内容を異にし、一定のことがらを指すわけではない。しかもその言葉には、まず左右のちがいを指摘することから始まって、ついで、事物それぞれにそなわる特質を明示し、さらに、事物それぞれの同異を分類し、ついには、彼此(ひし)自他の優劣を競争させるという働きがある。したがって、こうした性質の言葉によって、無限定の道を表現しようとするのが、そもそも問題なのである。言葉によって表現しようとすればするほど、その分別、分類の枠の外にはみ出してしまい収拾がつかなくなるだけであろう。道とは何か、言葉とは何か、両者の関係を知り悉(つ)くした聖人は、したがって、万物とは直接かかわることのない宇宙の外のことがらについては、在ることは認めつつも、一切言及することがない。万物が生死する宇宙の内についても、言及はしても云云(うんぬん)しない。人間にかかわりの深い古代の歴史や政治については、云云はしても是非を加えない。要するに、すべてを在るがままに容認するのである。たとい世を治めるに欠くことのできない道や言や仁や廉や勇といわれるものであっても、かくかくしかじかのものと言葉で言い表されたとたんに、それらは固定化され、その実質が見失われてしまい、逆に桎梏(しっこく)へと転化していくのである。とすれば、不道の道、不言の辯(ことば)、不仁の仁、不けん*の廉、不忮(ふし)の勇こそがもとめられなければならない。宇宙の外について在ることを認めても言及せず、宇宙の内については言及しても云云せず、古代の歴史や政治については云云しても是非の分別を加えない聖人こそ、そうした行為の真の体現者であり、光(ちえ)をかくした聖人の心はまさしく天府であろう。(中嶋、同書、p128)

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天府 ゆたかな地(白川、字通、p1165)

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