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助かる見込みのない山崎に大友皇子を誘導したのは誰だったか

2016年3月14日 月曜日 晴れ

小林惠子 西域から来た皇女 本当は怖ろしい万葉集2 祥伝社 2005年

届けられた大友皇子の首
大伴安麻呂とすべての面で対照的な存在が石上(物部)麻呂だった。かれは終生、高市皇子の忠臣として過ごし、高市皇子没後、長屋王のために奔走した単純明快な武人である。(小林惠子、同書、p204)・・ 最後まで大友皇子に従っていたのは物部麻呂と二、三の舎人のみで、三日後の(六七二年七月)二六日には将軍等が大友皇子の首を捧げて大海人皇子のいる不破宮に行ったとある。 ・・このように「持統紀」では、大友皇子は自殺したのではなく殺されたことになっている。そしてその場にいたのは麻呂だった。・・大友皇子の周辺に裏切り者がいなければ、迅速に首が大海人皇子の元に届くわけはない。大友皇子の忠臣であるなら、むしろ遺骸を奉じて大海人側の目に触れないように隠れるのが普通ではないか。・・琵琶湖を北上して日本海側に出て、平壌に駐屯していた唐軍のもとに逃げるなら、大友皇子に生存の余地があっただろう。わざわざ助かる見込みのない山崎に大友皇子を誘導したのは麻呂だったのではないか。 なぜ麻呂は大友皇子を裏切ったか。・・麻呂は高市皇子に恩義を感じたとみえ、生涯にわたって高市皇子のみならず、その一族に忠誠を尽くした。(小林惠子、同書、p205-207)

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