私は真実を知りたい

 

2012年9月5日 水曜日。

 

藤永さんの今日(注:2012年9月5日)のブログから。去年のリビヤに関するコメントの引用。 <以下引用> 「しかし、今こうして彼らの発言とマスメディアの報道を蒐集保存しておけば、 3年も経たない内に、彼らが正しかったか、それとも、私の悲観的見方が正しかったか、がはっきり分かると思うからです。「それが分かって何になる」という声が聞こえてくるような気がします。その通りです。あと3年、生きているかどうかも全くあやしい私にとっては、尚更のことと言えましょう。けれども、やはり、私は真実を知りたい。生半可な絶望の中に没するよりも、絶望を確認してから死ぬほうが、日本人らしい選択だとは言えませんか?」 <引用終わり>

予定ではデッドリフトの日なのだが、日曜日のスクワットの脚の疲労が抜けず、昨日の夜の頭痛のこともあり、トレーニングの用意を持ってラボをでたものの、バス停に着く頃には今日はデッドを延期して早めにうちに帰って休むことにしてしまった。

会議が延々と3時間も続いていたことも疲労の原因かもしれない。ただし、教授総会と研究科委員会との合間の数分を利用して、持参したホットケーキ3切れとにんじんジュースを廊下の端でぱっぱっと食して、続く長時間の会議に備えることができたので、比較的疲労なく夜を迎えられてはいたのだが。

食料を少しでも用意して、会議の間に食べるようにするとからだが保てそうだ。次回も用意してバッグに詰めて会議に臨むことにしたい。

久しぶりにバーミヤンで夕食。鶏肉とカシューナッツ炒め、エビとホタテと夏野菜のこしょう炒め、それにライス。

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以上、2012年9月5日付けの日記より  2年前のこの頃は単身赴任で八王子に住んでおりました。

 

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夜と霧のパラドックス

 

2005年8月12日

以前、2005年3月20日付けで「南氷洋の「洋」」と題して、ガラード「世界最悪の旅」を紹介しました。わたしの友人、Aさんが、早速この本を注文購入して読んでくださっている、とのこと。わたし自身、この本からの長い引用をときどき読み返してみています。その後、植村直己の「極北に駆ける」山と渓谷社、2000年(初版は1974年、文藝春秋)、本多勝一の「極限の民族 第一部 カナダ・エスキモー」朝日新聞社、1967年、さらに、フリッチョフ・ナンセンの「極北 フラム号北極漂流記」中公文庫、2002年(原書は1897年刊)など、読み進んでいます。いつか、これらの本についても紹介したいと思っています。

さて、今回は、別ジャンルの二冊の本を紹介します。ともに、非常に重い、深い内容なので、ここでは気軽なタッチの私のコメントを置いたりするのは、差し控え、ただ単純に引用し紹介させていただきたいと思います。私も、折に触れて、これらの本を読み、考え、そして生きていきたいと思います。

以下は、「フランクル著作集1 夜と霧 123ページ みすず書房 1961年。」からの引用です。

「私は彼女の励まし勇気づける眼差しをみる—そしてたとえそこにいなくても—彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。」

「夜と霧」では、しばしば逆説的表現(パラドックス)が現れます。以下にいくつかひろってみます。

「人間がそれについて悟性を失う事物というものは存する・・・・・そうでなかったならば、人は失うべき悟性を有しないのだ」とかつて述べたのはヘッベルであったと思う。異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。(フランクル著作集1 夜と霧 99ページ みすず書房 1961年。)

元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、(略)、収容所生活のかくも困難な外的状況を、苦痛ではあるにせよ、彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には、体験しなかった。なぜならば、彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。(同書、121ページ。)

収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言ったとき、私の仲間はいつも賛成してくれた。(同書、173ページ)

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次に、原爆に関して、家永三郎「戦争責任」 岩波書店、1985年、より以下に引用します。

<バーンスタインは、「われわれは今では、原爆が遺伝的傷害をもたらし、この悪質な遺産をのちの世代に伝えることを知っていますが、1945年にはだれもそのことを知らなかったし、政策決定者層も科学者もそのことを予想せず、警告しませんでした」と言っているけれど、重大な結果をもたらす行為の実行を決断するものは、それによって生じる結果について責任を負わねばならない。もし1945(昭和20)年当時にそれが予見できなかったとしても、あれだけの破壊力を認識できたものにとって、そこまで予見できなかったとすれば、予見できなかったことについて少なくとも重大な過失がある、とされねばならないのではあるまいか(同書、324ページ)。>

戦争責任に関して、家永さんの同書から、以下にいくつか取り上げてみます。

<戦争責任の追及から積極的生産的な効果を導くためにはさらに慎重かつ複眼的な配慮が望ましいと考える。(同書、384ページ)>

<まず自分自身の、たとい戦争に協力しなかったにせよ、不作為の消極的戦争責任への反省から出発することが第一の急務であったとも思われるのである。(中略)戦争責任の問題を真剣にとり上げようとするときに何よりも先に自己の戦争責任の問題にたじろがずに直面することは、そのような没主体的思想彷徨に堕するのを防止するためにも、避けてはならない課題であったのである。(同書、383ページ)>

<日本国憲法が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争の放棄と戦力の不保持とを決意したのは、かような「民」のレベルでの「信頼」関係の累積・発展に期待をかける意思の表明であって、「諸国家の公正と信義」を盲信する意味と読んではならないと確信する。地の塩ともいうべき良心の持ち主は、国境と人種とを越えて世界のいずこにも見いだし得るという事実を知ることは、あまりにも非人間的な状況にみたされた世界であるだけに、私たちにとりいっそう大きな救いとなるのである。(同書345ページ)>

「戦争を知らない世代」にも責任はあるか: <それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである(同書309ページ)。> <国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きているかぎり、国家・民族が集団として担う責任を分担する義務を免れないのは当然ではないか。しかも、個人の独立が強いからこそ、その責任を個人の自発的意志により進んで背負うのである(同書311ページ)。>

家永さんの本から最後の部分を以下に引用します(家永三郎「戦争責任」 401-402ページ、岩波書店、1985年、より引用。)

「ただし、人間の力は有限であるから、どれほど誠実かつ全力を傾けても、必ず目的を達成できるとは限らない。不幸にして核戦争を阻止できず、もはやその「惨禍」を惹き起した責任を問うものも問われるものも地上に存在しない状態が現出しないという保障はない。それにもかかわらず、人が人であるかぎり、相対有限の中でなすべきことをなすことによって相対有限の世界にありながら絶対無限の世界に超出し、時間を超えた永遠の生命を獲得することができるのである。それは形式論理では解くことのできないパラドックスではあるけれど、人の人たるゆえんは、そのようなパラドックスの内にのみ生きるほかないところにある、というのが、ありのままに人の生き方を直視したときに明らかに見えてくる事実(Sache)である。戦争責任は、単なる相対有限の人と人との間で生ずる責任にとどまらず、相対有限の人が絶対無限なるもの(ここでは有神論に立つ「神」に限定して考える必要はない)に対する責任でもあるのである。最悪の事態を想定しても、戦争責任を償うための努力が無に終ることはないとの確信に立ち、そして最悪の事態を回避する選択肢が現に存在する今日、その選択肢を選ぶことを誤らないように、もっとも理性的かつ良心的に努力することが、戦争責任を償おうとするもののとるべき唯一の道として私たちの前に開かれているのである。」

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夜と霧のパラドックス  以上、2005年8月12日 付けのWEBページより再掲

 

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

 

2005年8月3日

日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

一度は伍子胥のことを、そして范蠡のことを書いてみたい、と思い、(3ヶ月も前に)臥薪嘗胆から書き起こした。臥薪嘗胆エピソードの活劇、私の心のスクリーンの上で最も生き生きと活躍する人物は、闔閭・夫差や勾践ではなく、伍子胥と范蠡である。もとから私は、夫差も勾践も好きではない。前回の文章でも書いたように、私自身は「臥薪嘗胆」で頑張るのが好きだけど、所詮、烏龍茶をPR茶にレベルダウンする程度のお茶のみ話でしかない。臥薪嘗胆をしたのは呉王や越王である。もしも、私が当時の呉か越か、あるいは楚(#補足参照)に生まれていたとしたら、(歴史に「もしも~たら」は、禁物であるが)、夫差や勾践として生まれてはいない。生まれたときから、硬く冷たいベッドに寝起きし、まずいはずの胆もごちそうに思える庶民の子に生まれ、「いまに見ていろ」という育ち方をしたに違いない。私の意識の中では、夫差に生まれ変わることが、どうしてもできない。王様になれない私にとっては、「臥薪嘗胆」は、全く縁のない努力の範疇に属する。臥薪嘗胆の努力は、どこにも必要ない。忘れがたい恨みがもし有ったとするなら、薪の上に寝て部下から毎日思い出させてもらわなくとも、苦い胆を嘗めなくても、忘れはしない。

この臥薪嘗胆の物語と交差し合いながら、伍子胥の人生が同時進行する。伍子胥こそ、「決して忘れない男」であった。日暮れて道遠、死者を鞭打つ、その姿は二千五百年の歳月を経た今日でも、余りにも壮絶な映像フィルムである。呉王夫差が、「父王闔閭が殺された恨みを忘れるな」と部下たちに毎日ことさら言わせることなど、伍子胥の眼には児戯に等しいと映ったことであろう。陳舜臣さんの「小説十八史略」(*注)では、その辺りを上手に脚色して描いてあり、私も全く同感である。たとえ父親の仇であっても、人を恨み、憎み抜いて、相手かあるいは自分のどちらかが滅び尽くすまで、どろどろの世界で戦い続けることなど、生まれながらのプリンス、夫差には難しいことであった。ちっとも美しくない。潔くもない。きれいさっぱり水に流せないものか。夫差の気持ちはその後の歴史の進行が雄弁に物語っている。夫差は、実に才能豊かな英雄である。会稽での勝利の後、中原へ兵を進め覇者をめざして飛躍することとなる。(##補足参照)

以前、私は、「要は、癌と戦う気持ちを忘れなければそれでよいのだ」と書いた。私の難病への想いは、ほんのちょっぴりかもしれないけれど、伍子胥の楚王への想いに似ている。「初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった**注」—私は、もともとそのような「ひよわな志」しか持たず、少年の頃から中途半端、挫折ばかりを繰り返してきた。そんな私が、(低調な失敗の連続ではあったが)こうして25年も難病治療の研究を続けてこられたのは、その大きさ激しさ重さすべてにおいて伍子胥に遠く遠く及ばないのを承知の上で、敢えて語れば、伍子胥とどこか同質の執拗な想いがあるからだ。死者を鞭打つ伍子胥の姿に、おぞましく鬼気迫る狂気を見、眼をそむけ、後ろを振り向くことなく逃げ出してしまいたい、それが普通だ。が、司馬遷ならきっとそうしたであろうように、もし、私がその場に傍観者として立っていたならば、その場に立ちつくし、その姿を脳裏に焼き付け、歴史の一ページに書き留めようとしたことだろう。眼をそむけたいのに、逃げ出してしまいたいのに、できない。そうだ、伍子胥の生き様そのものが、私たちが忘れてはならない貴重な「歴史」なのだ。日暮れて道遠、私自身も最近ときどきこの言葉を人前で口にするようになった。その時、頭の中をよぎるのは、この伍子胥の姿。「必樹吾墓梓。梓可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」呉の国が滅びるよりもずっと前に、伍子胥の死体は揚子江に投げ捨てられてしまう。その最期までも壮烈。

さて、しかし、私が最も注目する「臥薪嘗胆」の故事の登場人物は、実は、范蠡である。私のふるさと津山の西部、院庄には、作楽神社(明治2年にできたもの)の史跡がある。後醍醐天皇と児島高徳(こじまたかのり)の故事、「天莫空勾践 時非無范蠡」(太平記)のゆかりの地である。私の小学校の遠足でははるばる歩いて行ったし、また、中学校の体育会ではこの漢詩の謡いに合わせてみんなで演武を舞わせられたりしたので、「天莫空勾践 時非無范蠡」の句を、40年近く経った今も忘れないのである。子供心にも、「ハンレイ」という人物、立派な人に違いないと信じていた。この范蠡、別名で何度も登場し、史記列伝のなかでも、私が最も注目すべき人物である。日暮れて道遠、となってしまった今だから負け惜しみで言っているように思われるかもしれないが、私はすでに15年ぐらい前から「粘りにでる作戦」にストラテジーを切り替えた。すなわち、医学研究分野での「早雲」たらんとする方針に切り替えたのである。北条早雲の若い頃のことは不明である。彼が、小田原で一国一城の主となったときすでに60歳。そのまま数年で死んでいれば、北条3代の繁栄は無かった。88歳まで地に足をつけて、しっかり生きたからこそ、諸国の大名から政治面でも生活面でも尊敬される「北条早雲」となったのである。中国の歴史(たとえば史記列伝)の中には、熟年で頑張った人物たちが、さらに大勢登場する。人生を二毛作か三毛作で生きた人々である。(これからの時代は四毛作***注 であろう。) なかでも范蠡は、呉越戦争終了後、越王勾践ときれいさっぱり縁を切って、さっと旅だってゆく。あの潔さがたまらない。素敵な生き様だ。しかもそのまま「去りゆくのみ」ではない。カメレオンのように姿を変えて颯爽と、今度は貨殖列伝のなかに登場する。先に述べたように、たとえ想像上の仮定でさえ、プリンス夫差になれない私が、現実になんとか范蠡を先生としたいと思っているのだから、不思議な矛盾に驚かされる。呉の国を滅ぼしてしまったように、(たったひとつでも良いから)難病をなんとか粘って滅ぼした暁には、あの范蠡のように、さっさと勾践を見限って、また新しい挑戦の旅に船出してみたいのである。  「だから決めた できれば長生きすることに  年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように   ね  ****注」   だから私の墓には梓の樹を植える必要はない、と思いたい。しかし、いかに超持久戦に持ち込んでいるのを自覚している私でも、「日暮れて道遠」は、見つめなければならない重い現実である。范蠡のように勝利を得てさらに高く飛翔することが、理想。しかし、第一目標が達成できない私のような研究者は、伍子胥のように最期まで、鬼気迫る面持ちで、薄氷を踏むような実験を重ねてゆくことになるのだろうか。念のため、梓の種を蒔き、小さな苗から育て始めても、尚早ではないかもしれない。梓の樹ってどんな樹なのか? 北海道でも育つのだろうか?

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注* 陳舜臣 小説十八史略 毎日新聞社 1987年。

注** 茨木のり子詩集 自分の感受性くらい <新装版> 花神社 2005年(初版は1977年)。

注*** 石津謙介 人間的な かっこいい貧乏人の人生四毛作論 三五館 1998年。

注**** 茨木のり子 わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子詩集 見えない配達夫 童話屋 2001年復刊(初版は1958年)。

#補足: 楚は現在の湖南、湖北両省の地域を指す。

##補足: そして西施も登場し、「顰み(ひそみ;眉をしかめること)にならう」という故事も生まれる。夫差の死、すなわち呉国の滅亡の後、西施がどのような生涯を送ったのか、史書に記載がない。(西施の名は「春秋左伝」や「史記」などの正史には見えない。)陳舜臣さんの「小説十八史略」では、范蠡と共に越を去り、新たな人生を歩んだように描かれている。私も西施には幸せに生き延びてもらいたい。しかし、范蠡の経営する八百屋の店頭に立って、大声を張り上げて野菜を売りさばいている商売上手の女将さんの西施の姿を想像することは、私の想像力をもってしては難しい。400年後の司馬遷の頃には西施の記録はすべて失われていたことだろう。あるいは、西施の行方は、夫差の死後すぐに、だれにもわからないものになったのかもしれない。陳舜臣さんのような優れたストーリーテラー(###補足参照)に任せるべきテーマ。

###補足: 小説と歴史について  陳舜臣の「小説十八史略」は、文字通り、小説である。司馬遼太郎の歴史小説が大衆小説であるのと同じ意味で大衆小説である。私(HH)は、陳舜臣や司馬遼太郎の歴史小説を興味深く読みはするが、しかし、しばしば、「いや、本当は別のことが起こっていた」と思い始めると、余り楽しめなくなる。すなわち、私は、小説よりも「歴史」の方がずっと好きである。こんなことがあったとしたら面白いだろう、という小説よりも、資料を精確に評価して真実を追究してゆく「歴史」を読みながら、考えることが好きである。皆さんも歴史小説が「小説」であることを忘れずに。是非、オリジナルの「史記」その他の歴史書も読んでいってください。

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡  以上、2005年8月3日付けWEBページより再掲

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歴史観の思想史

 

2014年4月22日 火曜日

 

佐藤健志著 僕たちは戦後史を知らない 祥伝社 2013年 読了。

「ファンタジーの戦後史」というキーワードを全編のライトモチーフとして、敗戦から現在までの約70年間、戦後史が日本人によってどのように捉えられたかを語る。何が起こったかという歴史ではなく、歴史の解釈がどのようになされたかという「歴史観の思想史」の本。歴史の本としては、あまり読みたくないジャンルの本。ジャンルはさておくとしても、この本の叙述には私から見て多くの疑問点がある。たとえば、

1) 戦後の歴史を日本だけで捉えていること: 世界全体の中の日本として考えなければ真実が見えてこないはず。

2) 日本人の思想といいながら、その日本人が何ものなのか明確ではない。

この本で引用されているものの多くは、映画監督、演劇演出家、など、いわゆる文化人ないしインテリ、それに若干の政治家が中心である。この本の著者が、舞台芸術の評論を中心に活動しておられることから、日本人の思想として映画や演劇関連で活躍されている著名人の言論を取り上げられるのはやむを得ない。しかし、彼らを日本人として代表させて良いのか。

明確には書かれていないが、著者が暗黙に日本人としているモノの像を私は以下のように感じる。

すなわち、日本人としては、マスコミが扱ういわゆる「われわれ日本人」、つまり大新聞の社説などを書く編集委員などマスメディアのオピニオンリーダーたちを、具体的には想定すればよいのだろう。

しかし、彼らのような存在を総体として語る必要があるのか? 歴史書で語るだけの価値ないし実体のある対象なのか?

彼らのような日本人を「日本人」として扱って正確なのか? そのような「日本人」を彼らのような日本人に代表させて本当に把握することができるのか? はなはだ疑問である。

たとえば、映画監督のO氏が戦後をどのように捉えてどのような映画を作製して世に問うたところで、多くの日本人に何の関わりがあろうか? 日本人という言葉を使って紛らわしければ、言い換えよう。この私に何の関わりがあろうか? 文化人ないしインテリが彼らの歴史解釈を何と表現しようと、マスコミがどのように新聞やテレビなどのメディアに紹介宣伝しようと、無名の日本人に何の関わりがあろうか?

「無名の日本人」など、この日本にいるわけがない。が、99%の人々は「無名」として、インヴィジブル、見えない存在として扱われるのである。しかし、私は、はっきり言いたい。いわゆるマスメディアのオピニオンリーダーたちとこの無名の日本人とは、全く別物、ほぼ無関係の関係にあるということである。

文明ないし文化批評として、「日本人」を扱う読み物には、最大公約数的な「日本人」を扱おうとする暗黙の了解があろうが、これがほとんどの現実の日本人をどうしても割り切れないのである。すなわち、提出された総体としての思想はこねくり作られた眉唾ものである。用途としては、曖昧な思想の宣伝として使い捨てで使われることになる場合が多いのである。

私が知りたいのは、だれがどのように解釈したか、ということではない。本当に何が真実であったか、ということを真摯に追求した歴史の本を読みたい。

 

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兵士シュヴェイクの大戦前夜 その1

 

2014年4月6日 日曜日

 

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兵士シュヴェイクの大戦前夜 その1

 

第一次世界大戦がどうして始まったか、すこしでもわかるように歴史書を書いてゆくのはむずかしいことだろう。開戦前夜、たとえば1914年の人々の生き方はどんなものであっただろうか。小さなシリーズとして点描してみたい。

その第一弾は、兵士シュヴェイク。20世紀のサンチョ・パンサとして痛快に活躍する。

オーストリアの皇太子が暗殺された頃、そのオーストリア・ハンガリー帝国の中のプラハの町で暮らしていたのが、この物語の主人公、兵士シュヴェイクだ。その時点では兵士でも従卒でもなく、イヌの売買に関連した一種の職業(イヌドロボウ?)に従事する一般人民であった。市民と言ってもいいのだろうか。選挙権があったのだろうか。知らないことばかり。

作者のハシェクがこの作品を書いたのは大戦後、チェコスロバキアの国ができた頃。ハシェクが亡くなったのが1923年の1月のことなので、1914年の開戦前夜の記憶も古びることなく、この物語の中に生きていることであろう。

 

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